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学徒区と観光区の境の通りには、隠れ家のような小さな酒場があった。審問後の夕刻時、人気の薄い閑散とした奥間のテーブル席で、ブラウンは嬉々と記事の下書きを書き進めていく。
「『キャンベル家・栄光の裏側――金の女神の語りし涙の備忘録』――見出しはこんなところかねえ」
酒場のドアが開き、ブラウンの隣にどっかりと腰を落ち着けたのは渋面のマーガレットだった。滞在ホテルで着替えてきたのか、朽葉色の目立たないワンピースを身に纏っている。椅子の背にだらしなく身体を預け、すぐさま出されてきたシードルの瓶に口を付けて、一気に飲み干していく。
「……っぷぁ~~、仕事を終えた後の一杯は格別だわねえ……」
「あははお疲れ、随分と女優だったじゃん。涙なんて流せたんだね」
「ホホホ、失礼な奴ねえ。人間の生理機能なんだから流せて当然でしょ」
「ニコニコ笑うだけが取り柄のお人形――かつてそう嗤ってた奴らもキミにはメロメロさ」
「あんたはそういう軽口もゴシップ好きも相変わらずね」
マーガレットが幾分愉快そうに口元を歪めた。注文した紅ハッカの根を摘まもうとした矢先、真後ろからカツンと甲高い靴音が鳴った。
「――メッキが剥がれているわよ、大言壮語の見栄っ張り小娘」
マーガレットは怯えるように肩を跳ね上げた。緊張感も剥がれた今、一番に聞きたくない冷徹な声音だった。
恐る恐る首を回して、真後ろに佇む女性を仰ぐ。
「き、局長……どうしてここに」
冷淡な表情のアルテミシアは、マーガレットの背後のバーカウンターに腰を落ち着けた。
「わたくしの行きつけの酒場に、お前がいただけということでしょう」
マーガレットはすぐさまブラウンを睨んだ。
「どうしてここを落ち合い場所にしたの。あんたどうせ知ってたんでしょう?」
「いやー、だって、共闘を呑んでくれた銀の女神のお声も拝聴したかったし?」
ケタケタと笑うブラウンは、爛々とさせる眼差しをカウンターに注ぐ。
アルテミシアはふんと鼻先で冷ややかに笑った。
「狂言回しだと言いたいようね。だがあの場で話したことは、わたくしの真実で、本音だわ」
チョコレートを一つ摘まみ、蒸留酒を舐めてから、アルテミシアは神妙に声を落とす。
「決して忘れないわ――かつて学徒だったお前が、わたくしに無断で解呪を施したこと」
マーガレットは不意を突かれたように息を呑み、物静かな眼差しで問う。
「強心効果の解呪符……のことでしょうか」
「あれがなければ助からなかった、それは事実。一歩間違えれば、命を落としていた。それも曲げようのない現実」
マーガレットは今度こそ怯まなかった。物怖じせずにはっきりと告げる。
「綱渡りなことをしているつもりはありません。未熟であろうとも、――これからも」
「口車に乗せられるつもりはないわ」
差し向けられるのは決して融けることのない氷の顔だった。それでも固く結ぶ口元から、力を抜くような吐息がゆっくり押し出されていく。
「……そうね、お前はどの道、どうあろうともしたたかであれる。だが、キャンベルの若造はどうなのかしら」
「……それは、どういう意味でしょうか」
矛先が逸れて面食らいながらも、マーガレットは慎重に投げかける。アルテミシアは横目だけを向け、ひっそりと小声で言い渡した。
「……『鳥』に気を付けなさい。悧巧な白痴ほど末恐ろしいものはないのだから」
ピックスは、裁決印が押された書類を硬い床面に投げ打った。
「だからそこで何で無罪判決なんだよ! 上告だ、上告すんぞ畜生めが」
「異端審問にそんなシステムはありませんよ、ピックス」
ホスティアがさも鬱陶しそうに返した。判決そのものよりも、鳥籠に戻ってきた主の身体の方が心配だったからだ。
体調に問題のないエマニュエルはきょとんとピックスを見上げて、心底不思議そうに首を傾げている。
「何で? 彼女の言葉に嘘偽りはなかったもの。お仕事する以上、そこは公平さを前提にきちんと執り行わなきゃ」
「彼女は民衆を味方につけました。そしてこの街において、天なる神は民の味方です」
天空都市の立場として、エマニュエルとホスティアの言い分はおしなべて正しい。
それでも納得がいかないピックスは、歯を剥き出しにして唸った。
「あのな、あいつは狡猾な女なの、魔女なの。平気でペラペラあることないことくっちゃべられる悪女なの。何重も被った外面で周りの奴らを平気でかどわかす血も涙もないクソアマなの」
「それはむしろあなたではないですか、ピックス」
「ふざけんな、俺は男だ」
「性別のことなど問うてません、愚直な頭だ」
「テメーこそ空気読めねえ阿呆だな。んなこた分かってヘソ曲げてんだよ、察しろ唐変木」
「ふ、構って坊やとは薄気味悪い」
「んだと、もっかい言ってみろ、この偏執狂の色眼鏡が」
「も~~、カラスがぎゃあぎゃあとうるさいなあ。君ら喧嘩なら他所でやってくれる?」
魔術師が煩わしそうにソファで寝返りを打った。
「まあいいじゃんか、目的は果たしたんだからさあ。後は時間の問題なんだから、大目に見てあげなよ」
「時間って、どんくらいだよ?」
仏頂面のピックスに、魔術師は得意げに微笑む。
「……そうだね、『お迎え』に行く時かな」
エマニュエルの無垢な表情が、さっと変わる。虹色の光を放つ瞳が大きく見開かれ、唇に深々とした笑みが浮かんでいく。
「ピックス、伝えてくれてるんだよね」
「……ああ、ちゃんとな」
「そう。……じゃあ、いよいよ会えるんだね」
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