最後に残るもの

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最後に残るもの

 一樹の死から十年後、とある画廊が目をつけて大々的に売り出した少年は一躍画壇の寵児となった。学校には行っていない、という彼の絵は穏やかで温かい色彩に満ち溢れ、多くの人を魅了した。有名美術館がこぞって彼の絵を買い上げた。  収入が安定した彼は、画廊との契約を切り、画壇から飛び出し、マスコミ取材も講演もできるかぎり誠実に受けた。そんな彼にはいつも口さがない批評がついて回った。美大を出ていなくて基礎がない。全くの我流だからいずれ描けなくなるだろう。若くてちょっと顔やスタイルがいいだけ――事実、彼の澄んだ黒い瞳やすらりとした手足は画家というよりはモデルと言ってもよさそうだった――そんなやっかみとも批判ともつかない言葉を柳に風と受け流し、彼は地方から地方へと飛び回った。そしていつも必ず決まって或る話をするのである。――曰く、 「それまでは不安とか悲しみで絵を描いていたんです。でも小学校5年のある日、いつもどおり僕は学校にいかないで――え?なんで学校に行かなかったのかって?――うーん、なんででしょうね。僕、変わっていたのかもしれませんね、別に。困らないですね――学校に行かないでお茶の水をフラフラしていたら見知らぬお兄さんから絵の具を買ってもらったんです。そうです。あの梶井基次郎(かじいもとじろう)の本の名前にちなんだ画材店で。ご存知ですか? 丸善の前の。そうそう、そこです。僕はお店に入り込んで、36色の絵の具をずっと見てたんです。ほしいなぁって。こんなにたくさんの色を使って絵を描いてみたいなあって。本当なんですよ。あの日、あの出会いがなければ僕は今頃は……そうですね、何をしていたんでしょう。ろくなことになっていなかったのは間違いありません。あのお兄さんに会ってお礼をしたくて。いつかお会いできたらって思うんです。だからこうやっていろいろなところに来てお兄さんの思い出を喋っているんです」 と、巧みな話術で語った。  かつての少年は、この話をする度に、背がスラリと高く如何にも怜悧な目をした青年の、ごつごつした骨張った手の大きさと温かさを鮮やかに思い出すのであった。 (了)
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