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それぞれの休日
高山一樹は走っていた。何かに挑むように、何かから逃げるように走っていた。
大きなストライドで力強くアスファルトを蹴り、起伏の多い細い道を駆け抜け、神社の裏手を通って一気に聖堂の前のだらだらとした坂を駆け上がった。江戸の情緒を色濃く残す景色が一樹の周囲を流れ去っていく。
御茶ノ水駅聖橋口改札の前までくると一瞬躊躇ったが、改札へは向かわずに直進した。電車に乗っても良かったのだが、学生時代から馴染んだこの街を味わっておきたかったためである。予備校の行き帰りに立ち寄った丸善ではやはり学生たちが静かに立ち読みをしている。一樹の右手には老舗画材店が変わらずにあった。丸善の前にある、梶井基次郎の作品の名を冠した画材店のセンスを一樹は気に入っていた。ガラス張りの一階入り口付近には最近流行のマスキングテープや、輸入品の美しいカード類がディスプレイされている。駆け抜けようとした一樹はわずかな違和感を感じて足を止めた。
がらんとした店内に少年がいるのが見えた。小学校の四年生か五年生といったところだろうか。少年は大きな布製の手提げバッグを持っている。しかし今は平日の昼間なのである。一樹は嫌な予感がして店内に一歩を踏み入れた。少年は水彩絵の具が積まれている棚の前でじっと絵の具を見ているような格好をしながら、目だけはきょろきょろと落ち着き無くあたりを見回している。レジにいる店員はよく訓練された穏やかな表情を保ちつつ、ちらりちらりと少年に視線を投げかけている。少年と店員では遥かに店員のほうが老練に違いない。少年は手提げを少しだけ拡げた。一樹は静かに少年に向かって歩を進める。少年は手提げをまた少しだけ拡げた。それから三十六色の透明水彩絵の具の赤い箱に小さな手をかけた。一樹は横からさっと手を出して、その赤い箱を小さな手から奪い取った。
立ち竦む少年に、一樹は振り向くと、
「来いよ、買ってやる」
そう言って、少年の頭をくしゃくしゃと撫で回し、細く華奢な肩を強く抱いて引きずるようにレジへと向かった。店員は何も見ていなかったように淡々とレジを打ち、高くはないが安くもない値段を告げた。一樹はそれを支払うと、少年の肩を抱いたまま店の外に出た。
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