夏至の頃。

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「男の子よ。名前は勝己。俊一がつけて、出生届も出してくれたわ」  母の言葉が理解できずに、口を半分開けたまましばらく動けなかった。  全く間抜けなことに、この瞬間まで自分は赤ん坊の存在を知らされておらず、心身共に病んで静養に出たきり一年もなしのつぶてだった妻に苛立ち、そろそろ離縁するかとすら考えていた。  芳恵は、母を失った俊一のために据えた後添えだった。  出産後間もなく亡くなった最愛の妻の代わりになる者はいるはずがないが、家を守るために仕方なく迎えた。  そうした経緯で選んだ遠縁の芳恵は、若さ以外取り柄がなく、古びた容姿で存在感が薄く、陰気で自分のないつまらない女だった。  やはり、俊一の母としてそして真神の総領の妻としてふさわしくなかったのだと合点し、芳恵の産んだ子供たちともども実家に返す手配をするよう秘書に言いつけたところ、スイスへ引き取り彼らの面倒を見てくれていた母から連絡が入った。  別れるなら、こちらへ来てけじめをつけろと。  そうでないと一切のことはこの母が認めないと告げられ、書類を揃えて飛行機に乗り込んだ。  一年も会っていない妻と子供たちに未練はなかった。  乳飲み子だった俊一も、もはや18歳。  母親の必要な年ではない。  むしろ、これでようやく自分も俊一も身軽になれるとせいせいしていた。 「おとうさま、いらっしゃい」  ほんの数メートル先を歩けずに立ちすくんでいると、腰まで伸ばした黒髪から艶々とした光を放ちながら、長女の清乃が飛びついてきた。 「おしごと、おつかれさまです」  漆黒の瞳を輝かせて、抜けるように白い肌を薄く染めて心から嬉しそうに清乃が笑う。  こんな表情をする子供だったか。 「清乃・・・」  なめらかな頭に手をやると、静かに唇をほころばせた。 「かつみはね、まいにちたくさん、笑ってるの」  甘い、野いちごのような香りがたちのぼる。 「えくぼが、とてもかわいいの」  気が付いたら、手を引かれていた。 「おじいさまも、あかちゃんのときにえくぼ、あったのかしら」  頼りない小さな指先なのに、確実な力を持って、歩きを促す。 「なぜ?」  思わずこぼれた言葉に、無垢な眼差しがまっすぐに返ってきた。 「だって、瞳の色が、同じだもの」  開け放たれた窓から、風が静かに流れ込み、通り抜けていく。  若葉の香りに寄せて夏の始まりを告げた。
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