夏至の頃。

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 だから。  一緒に暮すことは、出来なかった。  全てを水に流して、母として妻としては生きられない。  ただ、償いの代わりに、東京を拠点にして生家と婚家を盛り立てていきたいと言うと、春正は困ったように微笑んだ。 「貴女がそう言うなら、今はそうしましょう。だけどもし、貴女を心から愛して大切いしてくれる人が現われたら、遠慮はいらない」  貴女の人生は、貴女のものだ。  真神に、嫁いでくれて、ありがとう。  真神に、惣一郎を授けてくれて、ありがとう。  真神家は、これ以上のことを欲しがらないことを約束する。  その言葉に、女としての寂しさを覚えなかったというと嘘になる。    でも、彼を愛し、彼が愛すべき人は自分でないと、悟った。  春正にこそ、必要だった。  何もかも捨てても惜しくない、愛する人が。 「・・・峰岸夕子の墓は、未だにないそうね」  峰岸夕子。  本邸へ家政婦として幼い息子とともに住み込んだ、寡婦。  春正が、初めて全てをかなぐり捨てて愛した女性。 「・・・知りません。真神に雇い人がいったいどれだけいると思っているのですか」  彼女は、若かった。  嫁の芳恵とたいして変わらぬ歳で、春正の子を宿す可能性が捨てきれなかった。  だから周囲は動揺し騒ぎ立て、惣一郎も彼女の排除に影で荷担していた。  心労がたたったのだろう。  数年前に急逝し、それを追うように春正もすぐに亡くなった。 「あなたがそんなだから・・・」  言いかけて、口をつぐむ。  今は亡き春正の骨壺の中には、夕子の遺灰をそっと忍ばせてある。  春正の、最期の、たった一つの願いだった。  しかし今の息子が知ったならば、おそらく骨壺を破壊し、遺骨を洗浄するだろう。  真神の血脈こそ真理と信じて生きてきたのだから。  名も無き花を愛でることは、彼の矜持が許さない。  顛末を知るのは、夕子の連れ子の覚と芳恵と秘書が一人、そしておそらく俊一だけだろう。  そして、永遠に、それが暴かれることはない。
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