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「父さん!健次じゃなくて哲也だろ。俺はて・つ・や!」哲也は同じセリフを何万回、言っただろう。息子の顔も名前も忘れ挙句の果てには、長男の哲也でなく次男の健次の名前を呼ぶ。病気とはいえ、腹立たしいやら悲しいやら、哲也はそれでも辛抱して返事をするのだ。
「健次―、お前大学はどこに決めたんだ?」雄一の記憶は健次の大学受験で止まっている、ということらしい。
「はいはい、早稲田ですよ、わ・せ・だ!」哲也は答える。
「そうか、健次は医者はいやだって言ったからな」
「そうだね、父さん、まずは安心して寝ようや」哲也は何とかして父を寝かしつけたい。
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父、雄三がおかしくなったのは一昨年の冬からだ。会社から帰宅途中に山手線に乗ったのはいいが、どこで降りていいかわからなくなった。ホームで不審に思った駅員さんが、電話をくれたので助かった。またある時には、車を運転して一方通行の道を逆走しようとした。すぐに警察に捕まったのでことなきを得たが、事故を起こしていたらと思うとゾッとする。それ以来、免許は取り上げた。というか車のカギを渡さなくした。これには父も怒って「馬鹿にするんじゃない、ボケ老人みたいじゃないか!」と哲也に殴りかかってきた。バットは持ち出すわ、食器は投げるわの騒動に発展した。
病院の診断は、若年性アルツハイマーだった。父は60歳を迎えていた。薬を飲んでいかに進行を遅らせるかしか、他に手立てがなかった。
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