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それ意外はこの一週間見下ろし続けた、バッキンガム・ゲートの変哲もない光景があるばかり。影の如くそっと足早に歩いているのは、同じ筋のウェストミンスター・チャペルに向かう熱心な信者達か、それとも金持ちの家へ奉仕しに通う使用人達だろうか。まだ夜の霧の名残を残す通りは、しっとりと清閑だった。艶のない人工的な色合いのボディは、置き去りにされたおもちゃの如く場違いに見える。
祖父の愛用していた旅行鞄は、放り込むようにして車のトランクへ収められる。さあどうぞ、と言わんばかりに顎で示されるまま、クレイグは身を丸めて助手席へ乗り込んだ。
「あんたはロンドン生まれ……じゃなかったな。でももう、長いこと暮らしてるんだろう」
「20年以上になる」
「なら案内して貰うのが良いんだろうが、これも規則でね」
折り畳んだ地図を開いては閉じ、上下をひっくり返しては元に戻し、あれだけ揉みくちゃにされては、どんな上質紙もあっという間に角が取れてしまうに違いない。忙しない動きを出来るだけ視界に入れないよう正面を向いたまま、クレイグは渋々口を開いた。
「君は?」
「え、ああ……戦後すぐに2年ちょっと、ここ数年は時々。それにしてもこの街は、数ヶ月でがらっと様子が変わるな」
そうは思わない、と言葉にする代わりに、掌をぐっと握りしめる。突き出して人差し指を何度も曲げ、ヤンキー風の手招きをしないだけの忍従は、まだ残っている。
「見ようか」
「いや、大丈夫。聖トマス病院だろう、あそこへ入院してる傷病兵によく会いに行ったから」
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