ユキワタリ

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ユキワタリ

 冬になると山の風景は一変した。  切り立った崖、鋭く尖った黒褐色の岩、深淵を抱く急流……なにもかもが絶え間なく降り続く雪の底に消え、まろやかな稜線を描く銀の砂原のような景色が広がる。山を訪れる人影は絶え、獣たちは沈黙する。そんな季節にユキワタリは文字通り、雪の中を渡っていくのだった。  毎年、ユキワタリは雪に全身をくるまれて目覚める。積もった雪の中をゆっくりと移動しながら厳冬期を過ごし、雪解けとともに薄らぐ意識を手放す……そんな無数の冬を繰り返している。夏の間、ユキワタリがどこで何をしているのか誰も知らないし、ユキワタリ自身にも分からない。  時折、自分が何なのか疑問に思う。  山にはユキワタリに似たものはひとつもない。淡い灰青色をふくんだ透明で弾力のある不定形、小ぶりな熊くらいの大きさで、動かぬ時は歪んだ球形をしている。目も耳も、鼻も口もない。手足もない。骨も脳もない。  それでもユキワタリは考え、感じることも出来る。切れ切れの夢の断片のような物思いでしかないけれど。  ユキワタリは食べないし、眠ることもない。動かずにいても苦痛ではないので、何日も同じ場所でじっとしていることがある。そんなとき、ユキワタリは自分が積もった雪の一部であると夢想する。自分はただの水なのだと考えて、少し幸せな気分になる。  止まっていないとき、ユキワタリは何かを求めている。それが何であるのか自分でも最早分からない。ただ、遠い昔に失った大切なものを再び体内に取り込まなくてはならない――そんな望みがユキワタリを突き動かし、雪の中をず、ず、と鈍い音をたてて移動させる。ゆっくりと、行くあてもないまま。
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