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先月の収支をまとめ終えた詩織は、パタンとノートパソコンを閉じた。
助手と言えば響きはいいが、大学生の詩織は、学校終わりと休日にイチの事務所で手伝っているいわばバイトである。
そんな詩織にアナログ派のイチが求めることは、主にパソコン関係の仕事と情報収集。
「はーい。終わりましたー」
「お疲れ様。はい、お待たせ」
「あ、ありがとうございます」
丁度良いタイミングで、イチが冷たいコーヒーを持ってきた。
詩織は礼を言い、受け取って思う。ーーこれではどちらが上司か分からないな。詩織はこの関係に疑問を抱きつつも、もらったコーヒーを一口飲む。
夏であることを忘れさせてくれるような冷たい感触が、詩織の上唇を刺激した。
良く冷えたコーヒーは口に含んだ時、とても甘く感じた。しかしコーヒーが口に馴染んだ瞬間、程よい苦味が顔を覗かせ、その甘味を押さえ込む。
いや、押さえ込むのではない。ーーダンスだ。甘味と苦味が奏でる最高のハーモニーが、口の中で優しく溶け合い、全く新しい味として、味覚は脳に、ダイレクトに伝わる。
コクンと飲み込み、コップから口を離す。唇は離れたくないと思ったのか、自身の周りにうっすらとコーヒーの痕跡を残す。
それを舌で小さく舐めると、詩織は小さく息を吐き。
「んー!おいしいー!」
思わず叫ばずにはいられなかった。無意識に発した言葉は、脳が直接感想を告げたようだ。
頬に手を当て喜ぶ詩織を見て、イチは微笑んだ。
「コーヒーを作る天才ですね!」
「せやろ?」
褒められて悪い気がしないイチは、誇らしい顔を隠そうともしない。
9月の初めの、穏やかな午前10時。玄関のベルが、数日振りに客が来たことを告げた。
懐かしささえ感じる軽やかな音に、詩織の顔も明るくなる。
「はーい!いちっち、久しぶりに!お客さんですよ!」
先日紛失物の捜索依頼に来た男性は、依頼料を取らなかったのでノーカウントだ。
「あいよ。出迎えは任せた」
イチは立ち上がり、客にコーヒーを淹れるべく給湯室という名の台所に向かった。
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