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八月
*
取材旅行から二週間、瑞姫は平日は太一郎と逢い、週末になると彬彦とデートをしていた。
大抵はドライブ、二度目の土曜日は湘南をのんびり巡ろうと誘われた。
瑞姫は窓の外の景色に見入るばかりで、会話は彬彦の話に相槌を打つばかりだ。それでも彬彦は気分を害した様子はない。
「少し早いですが、ランチにしますか。ちょうど有名なカレー屋が見えてきました、この時間ならまだ空いているでしょう」
国道134号線沿いの雰囲気のある建物が見えてきて、彬彦は提案する。瑞姫は何処でもいいとそれに従う。
テラスもあるが、夏の日差しに室内を希望する。盆休みの店内だ、かなりの人でにぎわっていた。
「あー……お盆か」
瑞姫は今更ながら思った。
「彬彦は帰省はしないの?」
先日も行った老舗旅館を思い出す。
瑞姫の両親は共に横浜出身だ、改めて帰省はしない。太一郎のところもそうだと言っていた。
「しませんよ、毎年しませんが、今年は幸い行きましたし」
彬彦は笑顔で応える。
「お盆じゃなかったじゃない。あんなおうちなら、きちんとおがら焼いたりしてそうだけど」
「してると思いますよ、私が子供のころは祖母がきちんとキュウリやナスで、馬や牛も作ってましたから」
「ああ、そういうのもいいわよね、古き良き日本の伝統って感じで。残したい」
「おや、ならば私と結婚して、あの旅館を守っていきましょうか?」
「はあ?」
瑞姫は殊更嫌そうに言ってしまって、慌てて笑顔を取り繕う。
「え……と、でも、弟さんが、って言ってたじゃない」
瑞姫が言うと、彬彦は嬉しそうに笑う。
「よかった、瑞姫が常識が通じる相手で」
何の事やらと頭を傾げると、
「実は、小滝先生に困っています」
「小滝……」
どうもその呼び名に慣れない、太一郎の妻のペンネームだ。
「継がないと何度も言うのに、いいところだ、戻ればいい。挙句には不安なら自分の一緒に行ってやると言い出して」
「ああ、あれ? 文豪なんかだと宿に長期滞在して執筆したりするから、そんな感じで? でもあんな所なら、素敵な作品が生まれそう!」
「とんでもない」
彬彦はすぐさま否定した。
「言葉の端端に、私と一緒になろうか、みたいなことを言い出したんです」
「え!?」
思わず歓喜が含まれそうになって、瑞姫は慌てて眉間に皴を寄せて見る。
「そ、それってさ、結婚ってこと? 太一郎さんと別れて……ってことだよね」
願ったり叶ったりだ、とは口には出せない。
「その気はないみたいですけど」
「なにそれ」
それには思い切り怒気が入ってしまった。
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