心音

2/3
前へ
/3ページ
次へ
何日か前のあの日、彼は事故に遭った。飲酒運転の車に撥ねられて死んだ。あっけなかったのかどうか、私にはわからない。彼の痛みがどれほどのものだったか、彼の苦しみがどれくらい長く続いたか、私は知らない。 その時私は家にいて、酒を飲んでいた。かなり酔っていて、電話にたどり着くまでに時間がかかった。立ち上がろうとしてよろめき、歩きながらあちこち身体をぶつけた。その間も電話は鳴り続けていた。そのあとのことはよく憶えていない。ただ受話器を取って、話したのだと思う。そして何かを言われたのだ。彼の死について、何かを。電話を切ったあと、自分の酒くさい息に吐き気を覚えて盛大にもどし、死にそうなくらいに苦しかったのだけれど、死ぬわけではなかった。死んだのは彼の方で、それなのに、自分の吐き気や苦しさが実際には迫って来て、だからこれも当たり前のように、彼の痛みや苦しさを私は知らず、また想像もつかなかった。自分が自分でしかないこと、他人の感じたすべてを何一つ味わわないことを、死にそうなくらいの苦しみの中で実感した。 便利で、楽に出来ているものだ、と。それから汚物を始末し、ベッドに入って少し眠った。 目が覚めると、そこには空白があった。 彼自身でもなく私自身でもない空白は、私が感じているものだった。彼の死によって、私の実感が変わったのだ。彼の死そのものよりも、何よりも、あの日からの空白が私にとって最も確かなものとなった。まだ夜が明けきらない時間に、家にある酒とグラスを一つ残らず捨てた。
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加