9人が本棚に入れています
本棚に追加
「本当の、名前……じゃ、……なくていい………じゃない、と、呼べ、ない」
再び、腕に力が入った。今度は牽制でもなんでもなく、人を殺すための力の入れ方だった。目の前が少しずつ霞んできて空気を求めて喘ぐが、肺には全く入ってこなかった。苦しさの中、大地は彼が耳元でふっと言葉を落としたのに気づいて、無意識に彼の言葉を繰り返した。それはほとんど声にならないような絞り出された音だった。
「テオ、ドール」
急速に肺に入り込んできた空気に大地は咽せた。腕が離されたのだと理解するよりも先に、ようやく得ることができた空気を必死に吸い込む。いきなりのことに驚きつつ、手を離した男を振り返る。苦しさに滲んだ涙で歪んだ視界。その中で、男がどうして、と呟いているのが分かった。殺気はもうなかった。まるで、どこかに取り残された子どものような顔で途方に暮れる彼に、訳もなくどうしようもない衝動が込み上げた。大地は今までに経験したことのないようなそれに、思わず彼の肩を掴み、ベッドへと押し倒した。
上から見下ろす彼は、先程までの圧倒的な強さを失い、弱々しくすら見えた。白いシーツの上に、彼の髪が乱れる。その姿が、やけに色っぽく見えた。命を狙われた相手だというのに、大地の中に怒りはない。
むしろ、その愁いを帯びた様子に、抱きしめてしまいたくすらあった。
「もう、人間に振り回されるのは、ごめんだ」
静かな叫びが部屋に響いた。押し殺したようなその声は、確かに助けを求めている気がした。先程と一転、男は諦めたように体の力を抜いて、大地をじっと見た。
「……でも、呼び出されてしまったもんはしょうがないか……誰を殺せばいい? 好きに使えよ」
苦しげに寄せられた眉も、一瞬大地の首に伸ばされて落ちた腕も、諦めが強く滲んでいた。奥歯を噛み締め、まるで陵辱された後の処女のように、大地から目をそらし部屋のどこか中空を見つめている。
「テオドール」
最初のコメントを投稿しよう!