渡川

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渡川

 時に太陰太陽暦で天正三年(西暦1575年)九月中旬(10月下旬~11月初旬)  三千余の将兵が固唾(かたず)を飲みこみ、とある貴人の下知を静かに待っている。  彼等の目前には、土佐国の東の大河【渡川(わたりがわ)・現、四万十川(しまんとがわ)】が朗々と流れ太平洋へと向かい注いでおり、その川の土手に沿って土塁が築かれ、土塁の上には幾重にもわたり柵を厳重に張りめぐらされていた。 対岸には敵がいる。 合衆(ごうしゅう)し布陣を終えた〝長曾我部勢(ちょうそかべぜい)〟七千三百余の将兵が、馬いななかせ草を擦り、七つ酢漿草(かたばみ)旗幟(はたのぼり)はためかせ、士気も高く対峙していた。  敵の惣大将は、その大馬印(おおうまじるし)からして土佐国司【一条左近衛中将内政(いちじょうさこんえのちゅうじょうただまさ)・官位・従五位下(じゅごいのげ)】であろうことは、陣内の誰からも見て取れた。     
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