#1

5/5
前へ
/5ページ
次へ
しかし全てが限りなく遠く聞こえた。起き上がろうとしても止められた。手の中で、パイプがぎし、と情けなく鳴った。もう片方の手では、落として泥だらけになった扇子が二本、握らされていた。姿形は夢幻を身に纏った踊り子、しかし今は誰よりも脆弱なただの人間だった。 それから、踊るのを辞めた。衣装と道具だけが部屋の隅で埃を被っていた。部屋の照明でも白銀の雲は光る。この複雑な衣装の着方も知っている。輝かしい夢の中に、戻ろうと思えば出来るのかもしれないと何度も思ったが、夢を塗り潰してしまうほどの苦しみがそこにはあった。 頭の中の音楽は止めてしまった。 なんとなく避けていたが、時間が経つとともに避けることも忘れて来たある日、どこかで開催されていた祭で見た。自分が出来なくなってしまったあの踊りを。憂き世を晴らすために舞い続ける彼らの姿は目が潰れてしまいそうなほど鮮烈で、思わず背筋が伸びてしまうほど整えられた隊列は実際よりも底知れぬ奥行きを窺わせる。揃う足音の有無を言わさない音圧。夢の中に広がる空が描かれた扇子が一斉に開かれ、夢の奥へと空気は切り開かれていく。舞台から外側を見る、この時にしか見られない何かを見てぎらつく瞳と自信に満ちた笑顔。何百時間の練習を五分間で凝縮して異世界へと昇華する。 強かな足取りから繰り広げられる軽やかな跳躍、天を差す指先、絢爛に空間を切り裂く扇子の鋭い動線は少し前まで見ていた仲間の姿となんら変わりない。 よく知っている拍子に乗って、飛んで、回る。まるで静止しているような一瞬に息を呑み、ストンと着地するとあまりにもリアルにステージの床板が跳ねた。色彩が残像を残して、世界を作り上げていく。一糸乱れぬ足取り、伏せ目で見える長い睫毛、綺麗な手指が扇子を自由に操り、視線を引きつけ、引き込んでいく。 知っているからこそ、のめり込んでしまう。一度捉えられたら離れられなかった。たとえ体が動かずとも。 また勝手に頭を支配し始めた音楽は、以前よりも鮮明にリズムを刻み始めた。この感情を自分の中で飼い慣らすには音だけでは足らず、それに見合う映像は目の前にいる踊り子にこそだけ表現しきれるものであった。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加