月夜と檸檬

13/13
180人が本棚に入れています
本棚に追加
/18ページ
「見送られると悲しくなるから、モトさんは家のなかで普通に過ごしていて。心の準備が出来たら出発するから」  そう言って微笑んだ顔はどこか淋しげで、ぼくは引き寄せられるように瑞季の頭に手を伸ばした。くしゃくしゃと髪を撫でると、恥ずかしそうに瑞季は俯く。 「エンジン、こまめにチェックするんだよ。冷却水の補充も忘れずに。くれぐれも気を付けて」  早口でまくし立てるぼくに、今度は瑞季の右腕が伸びてきた。差し出された手を、そっと握りしめる。 「待ってるから」  ぼくの言葉に、瑞季は大きく頷く。それ以上、言葉は必要なかった。もう一度、今度はぎゅっと力を込めて手を握り合い、ぼくは部屋へと戻る。  ぼんやりとパソコンの画面を眺めながら、ひとり部屋のなかで耳を澄ましていた。やがて低く震えるエンジン音が響き、ぼくは立ち上がった。小走りで縁側に飛び出すと、リアランプが生垣の隙間から流れるように消えていく。音は次第に遠ざかり、やがて夜の闇に溶けていくように、辺りがしんと静まりかえった。    翌朝、ぼくは早起きして、瑞季からもらった黄色いペチュニアのポットを鉢に植え替えた。玄関に置くと、見慣れた景色が華やいで見えて、それだけで心が弾んだ。  白やピンクなど、ほかの色も寄せ植えしてみようか。花で彩られた、男の一人暮らしも悪くはないと思う。  日が十分に昇ってから、瑞季が使った布団のシーツやカバーを洗濯しようと思い部屋に入ると、ほのかな檸檬の香りに目を細めた。昨夜、瑞季がここにいたという証。何一つ忘れないように、ぼくはその香りを胸いっぱいに吸い込む。 『かならず、またここに来るよ』  信じるか、信じないか。瑞季は信じる方を選んでくれた。だからぼくも迷わず、信じる方を選ぶ。  ファスナーの引き手を摘みカバーをはずそうとして、やめた。ぎゅっと掛け布団を抱きしめて、そのまま身体を横たえる。  せめて、この香りが消えるまでは、このままで。  甘酸っぱいしあわせに包まれ、いつしかぼくは心地よい眠りへと落ちていった。 おわり
/18ページ

最初のコメントを投稿しよう!