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「……やぁ、今日も聞きにきてくれたんだね」
「えぇ。今日もとても素敵な演奏だったわ」
音楽室の入り口に佇む旋香は、律斗に拍手を送りながら静かに微笑んだ。満足したような柔らかな表情は、律斗には見えていない。それを彼女も理解している。
「ごめんね、今日で演奏を聞かせられるのは最後だ」
「分かってるわ。今日で卒業だもの、仕方ないわ」
困ったように眉を下げた律斗に、旋香は目を伏せてそう言い放つ。
「だから聞き納めに来たの。あなたの演奏が好きだから、この音色を忘れたくなくてね」
その言葉に、律斗は曖昧な笑みを浮かべた。
彼女と初めて会った時のことを想起する。入学式の日、この音楽室でピアノを弾いていた時のことだ。今日と同じように、演奏を終えた瞬間に拍手をくれた旋香は、今まで出会った誰よりも自分の演奏を賞賛してくれたのだ。それは偽りの言葉などではなく、心の奥から絞り出した硝子の如く澄んだものだった。それからというもの、律斗は旋香のためにピアノを弾き、旋香は律斗の演奏だけを聞き続けてきた。
「……ねぇ、旋香」
「なに?」
「旋香はどうして、俺の演奏なんかを聞きに来てくれていたの?」
青い夜風に透明のカーテンが揺れた。
純粋な疑問だったのだ。自分の演奏はプロの目に留まり、天才という重い肩書までつけられている。自分の演奏を好きだという人間にはたくさん出会ってきた。しかし、旋香は無類の音楽好きだ。何万という音を聞いてきたはずなのに、何故自分の演奏を選んだのだろうか。出会ったあの日から、ずっと気がかりだったのだ。
「あなたの演奏が好きだからに決まってるじゃない」
「うーん、答えになってないよ」
「あら、そうかしら。そうね……“あなたが”紡ぐ音だからかしら」
「俺が、紡ぐ音?」
僅かに得意げな表情を見せた旋香の言葉を、律斗は復唱する。
「えぇ。今まで出会ったピアニストの誰よりも綺麗で繊細な音を奏でているわ。あなたはとても素敵なピアニストよ」
「……目が見えないピアニストなのに?」
「それとこれとは関係ないでしょ」
今日はいつにも増して悲観的ね、と旋香は眉を下げた。コツコツと軽快な足音を立てながら、律斗の方へと歩み寄っていく。未だ鍵盤の上に乗せられた細く長い手に自身の手を重ね、旋香は柔らかい声で言う。
「……あなたの演奏にはね、不思議な力があるの」
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