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「……」
その質問に、律斗は即答することは出来なかった。光を失った灰色の瞳が揺らぐ。
律斗は、旋香と出会ってからというもの、彼女のために演奏をしていたといっても過言ではない。今までは自分のために弾いていたのだが、心から演奏を楽しんでくれる彼女のために弾きたいと思ったのだ。生徒たちが下校した後の夕暮れに染まる音楽室で、二人きりの時間を過ごしたことが遠い昔のような気がする。
「……俺は、いつもキミのために演奏をしてたよ」
「“あの日まで”は、でしょ?」
またも律斗は言葉に詰まる。表情の見えない旋香が、今は悲しそうに微笑んでいるような気がした。
「……私ね、一つ心残りがあるの」
黙り込んだ律斗に向けて、旋香は突然そう切り出した。律斗は、俯きがちであった顔を上げる。
「それはね、あなたの演奏を聞くこと。それも、私に向けた演奏を」
「……っ」
「ね?私の最後のお願い、聞いてよ」
「だって、俺がキミのために演奏したら──」
そこまで言って律斗は口を噤む。
本当はとうに分かり切っていたのだ。どうして“あの日”以降も毎日のように自分の演奏を聞きに来たのか。心から喜んでくれているのに、最後に悲しげな気配を残していくのも。だから、本心からは旋香のために演奏をしていなかった。
全ては、彼女の願いを“叶えない”ために。
「成仏するってことになるわね」
平然と吐き出されたその言葉に、律斗は悔し気に唇を噛みしめた。自分がいかに無力かを、今改めて自覚したのだ。
「大丈夫。私が望んだことだもの。あなたがそんな顔をする必要はないわ」
「……旋香は、辛くないの?」
「辛くないと言ったら嘘になるわ。でもね、私今とても幸せなの。どうしようもなくにやけてしまうほどにね」
「俺には……見えないからキミがどんな顔をしているか分からないよ……ッ」
手を伸ばせば届く距離にいるのに、指一本触れることはできない。盲目の律斗には、そう言った旋香がどんな表情をしているかは分からない。しかし、幸せだと言うその声は震えていて、律斗には彼女が泣いていることが分かっていた。
「これが最後なの。私もそろそろ眠りにつかなくちゃ」
半透明になった白い手が、律斗の手を包み込む。そこに温かさはあるものの、確かな感触はどこにも無かった。
「聞かせて、あなたの最高の演奏を」
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