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胸が苦しくなるような静寂だけがこの場にはあった。鈴のように綺麗なその声が紡ぐ言葉が、今はひどく悲しくて切ない。青く冷えた空気を吸う度に肺が凍り付いていくような気さえする。律斗は、顔をあげて静かに言う。
「……旋香は、それでいいんだね?」
「もちろんよ」
微笑むような声音に、何故だか安心してしまう。迷いのない真っ直ぐな言葉に、律斗は諦めたように微笑んだ。自分は今から彼女のために演奏をして、別れを告げなければならない。それがどんなことよりも辛く苦しいはずなのに、無性に旋香のために演奏をしたくなった。彼女に別れを告げたいわけじゃない。むしろこの時間が永遠に続いて欲しいと願うほどだ。ただ、彼女の思いに答えたい。律斗の心には、それしかなかった。
律斗は、自身の手に重ねられた旋香の手を握り返すような仕草をする。もちろん、その手が触れ合うことなどないけれど。
「……旋香、今俺の手に触れてる?」
「どうして分かったの?」
「なんとなく。温かいからかな」
「……そう」
温もりがそこにあるせいか、彼女がこの世に存在する人間だと錯覚してしまいそうになる。目には見えなくても、触れることはできなくても、旋香は確かにそこに居るのだ。
「……決めたよ。キミのために演奏をする。でも、俺はキミに別れを言いたいわけじゃないことだけは分かってね」
「そんなこと分かってるわよ。……ごめんなさい、辛いことをさせちゃって」
「ううん。キミのためだから……」
胸に燻る切なさを感じながら、律斗はピアノに向き直る。
「それで、俺は何を弾けばいいのかな?」
「何でもいいわよ?あなたが弾きやすい曲で」
「えー、最後の演奏って割には随分適当だなぁ」
「選曲も含めて私のための演奏だと思ってくれていいわよ?」
「あはは……相変わらずキミはキツくて偉そうだな」
「ちょっと、こんな時に急に毒吐くのやめてくれるかしら」
「ごめんごめん」
最後には似合わない和やかな雰囲気に、二人はそうして小さく笑い合った。花が咲くかのように、真夜中の音楽室には暖かい光が生まれたようだった。
それはまるで、出会ったあの日のようで──……
陽だまりのようなこの温かさを忘れないようにしっかりと心に焼き付けて、律斗は白鍵に触れて一つ音を鳴らす。
「……親愛なる旋香へ」
月光に溶けそうな静かな声でそう呟くと、律斗は夜の如く切ないメロディを奏で始めた。
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