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ひどく心悲しい旋律だった。静かで、遠い誰かを想うようなそんな音色。ひとつひとつの音が色づき、眠りについた思い出を呼び起こす。雨の雫のような音が、月明りに反射しては鈍く煌めいた。
紡がれる旋律を聞いて、旋香は驚いたように目を瞠る。この曲には、聞き覚えがあった。自分がピアノ演奏を聞き始めた頃に出会った名曲。この何とも言えない切なさを含む曲は、以前聞いたことがある。
「……ノクターン、第20番」
それは、フレデリック・ショパンの遺作であるノクターン第20番であった。ノクターンは、夜想曲と称されている。楽しかった夜を想う曲という意味があると何かの本で読んだ気がする。律斗がそれを選んだ理由を察して、旋香は静かに落涙した。
「それを選んだってことは、少なくとも私との時間は嫌じゃなかったって思っていいのね……?」
演奏の邪魔をしないよう、聞こえないくらい小さな声で呟いた。
「……むしろ楽しかったよ。きっと、今まで生きてきた中で一番」
聴覚の優れた律斗に、旋香の言葉は届いていた。優しく切ないメロディを背景に、二人は少しだけ言葉を交わす。
「……あぁ、やっぱりあなたの音は青色だわ」
「え……?」
「とても澄んだ青色。切なくて悲しい色だけれど、優しく包み込むような感じがする」
「旋香、キミは音が見えるのか……?」
「えぇ。あの日──私が死んだ日からあなたの青色は純度を失ってしまっていたけれど、今はすごく輝いているわ。だから、安心したの。これでもう、悔いは無さそうね」
「……」
青い音色。それは一体どういう感覚なのだろうか。音が目に見える感覚というものを、律斗は知らない。青色など、とうの昔に忘れてしまった。青とは、一体どのような色であったか。
「ごめんなさい、演奏は黙って聞くものよね。……あと少し、存分に聞かせてもらうわ」
そう言って旋香は口を閉じる。既に曲の半分ほどの演奏が終わってしまっている。残り半分。名残惜しい気持ちは胸に閉じ込めて、旋香は目を閉じた。
「俺もさ、一つ心残りがあるんだ」
手は止めないまま、律斗が口元を微かに緩めた。演奏中に彼から口を開くなど珍しいこともあるものだと旋香は不思議そうに目を薄く開く。
「一度でいいから、俺の演奏を聞いた時の旋香の顔が見たかった」
優しい声音に、旋香は何も言い返すことが出来なかった。
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