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「こんなにも何かを見たいと思ったのは初めてだ。俺の目が見えていればよかったのに……」
「……」
「ははっ、聞き手が静かに聞いているのに奏者が喋るなんてね……。ねぇ、旋香。最後に聞いてもいい?」
「……何かしら」
それまで演奏を途中で止めたことがなかった律斗が、初めて演奏中にその手を止めた。虫の鳴き声すら聞こえない今夜は静かすぎて、まるで二人だけの世界だ。この世界の誰もが眠りについてしまったかのようで。きっと、二人の別離のために用意された舞台なのだ。
「青色──俺の音は好き?」
そう問いかける自身の声は情けなく震えていた。どこかに置き忘れていた涙が、今になって溢れだそうとする。何も映さない灰色の瞳は、水のように揺らめいていた。
旋香は一粒の涙を零す律斗を見て、唇を震わせた。言いたい事はたくさんあった。今すぐに吐き出したい言葉はいくらでもある。それなのに、喉元でぐるぐると糸のように複雑に絡まって出てこない。必死に絞り出した言葉よりも、もっと伝えたいことはあった。だが。自分の気持ちを一番表現した言葉がこれなのだ。飾り気のない、真っ直ぐな言葉だ。
「えぇ、大好きよ……っ」
涙の混じった声だった。 それを聞いた律斗は、満足げに目を伏せる。ありがとう、と囁くようにそう言って、再びピアノに手を滑らせる。
まだ演奏は終わっていない。旋香のために、演奏を続けなければならない。それが彼女の願いなのだから。
鼻を啜る音が聞こえる中、再び青色の旋律が奏でられる。律斗が旋香のためだけに弾くこのメロディは、おそらく参加してきたどのコンテストの時よりも気持ちが籠っているだろう。
脳裏には、旋香との思い出が甦る。夕暮れの音楽室でピアノを弾いたこと、目が見えない自分を支えてくれたこと、一緒にピアノコンサートに行ったこと。まるでアルバムをめくっているかのように、次々と思い出が流れていく。数えきれないほどの、大切な思い出が。
──その時だった。
律斗の視界に、刹那の間だけ閃光が走った。思いもよらぬ出来事に、一瞬手を止めてしまいそうになる。反射的に閉じてしまった瞼をゆるりと開けば、そこには驚きの光景が広がっていた。
嘘だ、と思わず呟いた。演奏の手は止まらないが、脳裏に思い浮かべている楽譜が消えかかる。律斗は驚愕して瞬きを繰り返した。
なぜなら、青色の音符が浮遊する真夜中の音楽室が見えたからだった。
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