第1話 何でもない日

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男はポケットから使い捨てライターとWestのメンソールを出し、火をつける。 気だるそうに紫煙を吐き出しながら、本を片手に周りを見渡した。 外から見た建物のあちこちには、雑草がいつの間にか成長した子供のように伸び、風に揺れている。 男の名は東憲博(あずまのりひろ)。 少し前に海外へ行っていた人殺し――。 あなたは人殺し? もし誰かにそう言われたら、東は(うつむ)きながらこう言うだろう。 ……ちがう。 ちゃんと理由があったんだ。 俺は好きで人を殺したりしない。 ちゃんと理由が……。 かつてカントは言った。 “生来の義務として殺人は認められない” カントに(したが)えば、東は義務を放棄した事になる。 彼は感情を優先し、人を殺した。 タバコを吸いながら東は、以前に言われた事を思い出していた。 「欲望そのものに善悪はなく、好悪での区別だけだ。欲望と戦うのは社会的通念と法だけ。お前は無意識と本能に身を任せ、法との関係を見失った」 東は思う。 ……あの人の言うとおりだ。 俺はまだ見失っている……。 昼休みが終わり、いつも通りプレス機の前へ行き、ひたすら金属を加工する。 ヒュー、ガッシャン。 ヒュー、ガッシャン。 工場内に加工音が規則正しく鳴り響く。 ……マシーナリーな音。     
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