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その晩、私は下宿に戻らなかった。
近所に住む友人の家に頼み込んで上げて貰い、そのまま執筆に向かった。
物語を組み上げ、コマ割りを決め、藁半紙に書き散らした下書きを元にページを埋めていく。
その勢いに呆れ返った友人が何か言いたげなのを無視し、夜通し書き続けた。午前二時に万年筆インクが切れたので、友人のインクを拝借した(あとで発覚して怒られた)。
作品は作者の心血で出来ているという言葉の意味を、この夜理解した気がした。
人喰い鬼も姫君も、村人たちも、路傍の石でさえ、私の血から生まれた我が子だと思えた。
夜が明け朝日が差したとき、七割ほどが描き上がっていた。徹夜明けだというのに思考が冴えて奇妙に集中は途切れなかった。午前十時、最後のページを描き上げ、完、の文字を入れたとき、隣で眺めていた友人が拍手した。
「いや、凄いもんだ。よく仕上げたな。授業をサボって見る価値があったよ」
呑気に言う友人に、夕方五時に起こしてくれと言い捨て、私は倒れるように眠りについた。
あたたかい春の宵、いつもの時間。
彼女はベンチに腰掛け、私のノートに熱心に目を走らせている。何度も、何度も読み返している。
私はそれを図書館からそっと眺めている。彼女も私がここにいることを知っているのだろうが、昨日宣言したとおり、無視を決め込んでいる。
やがて彼女は立ち上がり、ノートを手に去って行った。
私は追わなかった。
あの作品を彼女が手元に置きたいというのなら、彼女にはその権利がある。あの物語の半分は彼女との語らいで生まれた――『人喰い鬼』改め、『人喰い鬼のための物語』は。
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