第1章

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 薬剤師の永井幸正は、地元の町で満ち足りていると同時に虚しい日々を過ごしているうちに、いつしか通りすがりの女性を意識するようになった。奇妙なオウムの看板があるゲームセンターで遊んだ帰りや、海老の入った海鮮ラーメンを食べに行列に並んでいるときなどに、突然彼女が現れてはそよ風のように歩いていく。彼女はある時はピンクのジャケットを身に纏い、ある時は洒落たリュックを背負っていた。彼女はいつも、自分だけが世界の秘密を知っているというような独特の表情を、美しすぎる瞳の中に浮かべていた。その日、駅の構内で偶然に彼女とすれ違った時、永井は心の中でこう呟いた。 『ああ、またあの人に会った。こっちが仄かに憧れているだけで、名前も素性も知らないあの人に。奇妙な現象だな。俺は彼女に夢中なのに、彼女にとって俺は通行人Aでしかないのだ。逆もまた然り。俺にしたって全精力を傾けるには、余りにも機会が少なすぎる。何かきっかけがないだろうか』  ある晩、夜空に煌いているペガサス座の方角を歩きながら、永井は友人で写真家の栗田清二の家に遊びに行った。彼はここで写真について学び、雑談をする。部屋には家具や生活必需品に混在してナイフや民芸品がアクセントとなって見る者を楽しませた。メインは何と言っても、壁じゅうに並んでいる栗田の写真だった。遠い海の彼方に沈む夕日、荘厳なヨーロッパの古城、森の奥の湖等々が、栗田の確固たる経歴を賞賛するかのように飾られていた。永井は栗田が撮ったレインボーブリッジの写真が気に入り、自ら写真教室に通い始めたというのが、そもそもの発端だった。ところが、交際を重ねていくうちに、永井の栗田への関心が薄らいでいく。良いことは良いし、綺麗で見事なのだが、永井が期待していたものとは違っていた。今では密かに、栗田のことを七十点と採点していた。さらに厄介なことに、永井の評価と反比例するかのように、栗田の写真は世界的なブームを巻き起こし始めたのであった。そんな彼と知人関係にある永井の鼻も高くなるという、複雑な事情。だから七十点評価はひた隠しにして、世界的写真家を前面に出して交際を続けた。要約すれば、信頼に基づく人間関係とまでは行かない、よそよそしい関係が写真教室のためだけに続いているのだった。
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