第1章

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こうした複雑な人間関係の下で、ある事件が起きてしまった。それは栗田が某新聞社主催の写真賞を受賞したときの事だった。小さなパーティーの席で、永井は馬鹿正直にこう言い放った。 「今回のコンテストでは、栗田さんの作品より、Tさんの作品の方が断然よかった」  この言葉の直後、その場に居合わせた参加者たちは、一瞬にして凍り付いてしまった。誰もが目のやり場に困り、重苦しくうろたえてしまった。さて、名指しされた栗田の、その瞬間に浮かび上がった顔の表情は、あの世で地獄の番人をしている赤鬼の形相よりも、遥かに恐ろしいものだった。全身も小刻みに震えて、この酷い仕打ちに耐えられる限界を超えているのだった。だがその後に、栗田が示した対応は予想外だった。彼は懸命な思いで、作り笑いを浮かべながら返事をした。 「君の言うことくらい、みんな知ってるよ。落選作品の方が優れてたなんて、よくある話だ。受賞する、しないは、時の運みたいなものさ」  こうして栗田が大人の度量を示して、この件に決着をつけた。それ以降、二人の友情関係の中で、このぎくしゃくした一件は、少なくとも表面的にはすっかり忘れ去られていた。だから、交際は途絶えなかったし、今宵もまた遊びに来たという訳である。この晩の授業が終わり、雑談に移った。 「君の写真の腕前は本当に進歩した。プロになる気はないの?」                言葉の端々に少し甘ったるさが残る独特な話し方で、栗田が言った。人生を演劇仕立てにして楽しんでいるような感じがした。つまり、人生のシナリオは既に完成されたので、後は演じるだけなのである。 「ありません。あくまでも趣味です。好きなようにやるのがアマ、好きなだけでは済まされず厳しい条件に応えるのがプロ」  「なるほど。プロの場合、好きだけではだめで、商売が成り立つ必要があるからな」 「それに今の仕事も好きだし」 「君、薬剤師だよね。あれのどこが楽しいのかさっぱり分からない。人気もなさそうだし。君は黙々と薬剤師の仕事を続けながら、ゲーセンと海鮮ラーメンに嵌っている。日曜の昼にスターバックスでコーヒーを飲み、読書をしながら、二言目には彼女が欲しいと呟く。地味な生活だな」   栗田の家ではビールも楽しみだった。ここで世界の色々なビールを味わうことができた。
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