第1章

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「また旨いビールですね。変な癖がないからゴクゴク飲める。何ていうビールですか?」 「コロナ・エキストラ。今の時代アマゾンで何でも買えるよ。凄い時代になったもんだ。浜辺でグラスにライムを挿して飲むのがスタイルだ」  「それはお洒落だな」  永井は浜辺で青い海を見ながらコロナ・エキストラを飲んだら、どんなに素敵だろうと思った。しかし栗田の家はリゾートビーチとはかけ離れていた。栗田が吸う煙草の煙が部屋中に充満し、雲の塊のようになっていて、ナイフで切り分けられそうな気さえする。まったく尋常な空間ではなかった。雲の切れ間から覗いている栗田の両眼は、まるで眼だけが空を飛んでいるように見えて、この上なく不気味な光景だった。すると空を飛ぶ眼が話し始めた。 「この前面白い写真が撮れてね」  そう言いながら少し時間をかけて、テーブルに一枚の写真を置いた。今度は写真が空を飛んできた。即座に、永井の顔から血の気が引いていく。写真のモチーフは、町でよく見かける駅前路上ライブ。ギターを弾いているのは、永井が思いを寄せているあの女性だった。 「この娘、町で時々見かけますよ」 「君も路上ライブ見たの?」 「いや。何回かすれ違ったことがあるんです」 「永井君って、もしかして電車男だったの?」 「まさか」 「そりゃ良かった。普通男だね。俺も電車男なんてまっぴら御免だ。路上ライブの印象だけど、すごく風変わりな感じだったな。ビートルズが出てきたときのように、他とは違うスタイルを持っている。ただ彼女のジャンルはジャズとフュージョンで、すごく演奏が上手い。物腰はクールで、嫌味がなく、感じがよく、究極的な自然体だった。我々がビートルズにひきつけられたのは、とにかく曲がいいからだけど、彼女もとにかく曲がいい」 「言うことなしじゃない。完璧過ぎて逆に不安になりそうな感じ」  小さな憧れだった彼女が、自分より大きな存在として永井に映り始め、それまでの感情に少しだけ陰影が加わった。だが路上ライブをやるようなタイプには見えなかった。栗田が吐き出す煙の量はますます増えて、すべてが雲に包まれてしまい、空を飛んでいた眼もどこかに行ってしまった。
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