第1章

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「今度は大規模なイベントを計画している。東京都と保険会社S社との共同事業で、ベストカップル写真展を開催することになった。子供から老人まで、カップルの印象的なシーンを集めた写真展だから、盛り上がるだろうし、かなりの反響が出そうだね。面白くなりそうだよ。君の作品も大歓迎だし、腕試しにぴったりだと思う」明確な理由はなかったが、永井は気乗りしなかった。益々、栗田への関心が薄くなっていく。人目を引くことが栗田の主たる目的のようである。一方、永井の主たる目的は、魂が引かれることだった。人目を引くものとは、ゴシップ週刊誌、お笑いバラエティーである。魂を引くものとは、バッハの音楽、ランボーの詩、ゴダールの映画である。すると栗田が、もう一度口を開いた。「君に本をあげるよ。哲学を勉強しようと思って、この前買ったんだが、ほとんど理解できなかった。またしても、神を信じなさいの繰り返しさ。西洋人はキリスト教で出来てるんだね。でも少しは理解できる所もあった。絶望には意味があり、直面して、克服することで、飛躍が可能になるということが勉強になった」 そう言って、永井に一冊の本を手渡した。キルケゴールの『死にいたる病』だった。   「ありがとうございます」 通常であれば、こういう出来事は、人間生活の中における、最も美しい行為と言える。だが、この時永井が感じたものは、ある種の違和感だった。それは、心の距離が遠くなっている相手からは、とても期待できない行いであった。それにも拘らず、この本そのものには、心底愛情を感じた。栗田の感想も率直で好感が持てた。                       あくる日も、薬剤師の永井には、薬剤師としての仕事が待っていた。東京郊外の大きな病院に勤務し、スタッフの重要なポジションを任されており、薬に関しては誰からも相談されるという存在だった。栗田には薬剤師のどこが楽しいのかと言われてしまったが、それはそのまま一般人の無知を代表している好例だった。どこが楽しいのだろう? それはチームが一致団結して、日本の医療を支えているという誇りだった。その日は、午後に業務が猛烈に忙しくなり、何度か大声を張り上げてしまった。入ったばかりの若い看護師を怒鳴る。 「君、ドクターに言っといてくれ。統合失調症に、五種類も薬はいらないよ。三つで十分。まったく上村先生にはいつも困ったな」
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