第1章

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 永井は自宅から十分ほど歩いて、駅前のスターバックスに辿り着いた。店内は狭苦しく、雰囲気も野暮ったい。しかし、僅か280円で美味いコーヒーと読書の時間を買えるのは、大満足だった。窓際の円テーブルとソファの席に座った。カウンター席より数倍も心地よく感じた。見るものすべてに、日曜日らしさが溢れている。子供が混じった家族連れが目立つし、時間が苛々するほどゆったりと流れていく。永井には、それが幸福ではなかった。それは彼が楽しんでいるものではなく、何かの巨大な圧力によって強制されているように思えた。自分が日曜の住人であることを、拒否した。彼が探している時間は、それとは違うものだった。それはコーヒーの香りと、キルケゴールのテキストでなくてはならなかった。  栗田に薦められた『死にいたる病』は、永井にとって貴重な体験となった。それは、読んだらすぐに消えていく、ただの一冊の本ではなかった。それは永遠の光を宿していた。弁証法、逆説と両義性が多い文章は非常に読みづらいのだが、それが独特のスタイルになっていて面白かった。それはどうにかして分からせようと、苦心する。ほとんど、その苦心の連続と言えた。こうだから世間の奴らは駄目なのだ。こうではなく、ああでなくてはならない。コーヒーは勿論だが、カップを見るのも好きだった。この本は絶望と孤独を宝物に変えていく。否応なしに店の雰囲気を感じ取ろうとする彼は、そこに衝撃のある傾向を見て取った。客の中に真っ白い気持ちで気ままに時を過ごそうとする者はなく、誰もが日常の雑用をスタバに持ち込んで、その処理に没頭している。それ故に、日常からの離脱を楽しむ永井は、フロアでただ一人浮いた存在であった。キルケゴールは、そんな孤独と絶望こそが宝であると主張する。彼はキルケゴールに感謝した。これは、文化再出発の起点に成り得る。世間一般の俗事に埋没して生きるか、見えないものを探し続けようとするかということ。若いカップルがチャンキークッキーフラペチーノを持って、店を出て行く。今日も、髪の長い緑の妖精マークの透明なコップが、町中に溢れていることだろう。カウンターの女性店員は、とても愛想がいい。安月給であんなことまで強要されるなんて、信じられない。窓際といっても、交番の外壁が景色を遮っている状態には、面白いジョークだと思い気に入った。『最高の眺めだな』
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