1人が本棚に入れています
本棚に追加
沈むだけ。浮かばない。沈んでゆくだけ。
体が軋む。水圧で解けそうになるのは、身体か、精神か。
沈んでゆくだけ。それだけのことがこんなにも容易いなんて。今ならあんなに恐ろしかった海の底へもいけそうな気がしている。
沈んでいるはずなのに、なんだか浮いているような錯覚に陥っている。おかしいな。今私はどちらを向いている? 上? 下? それとも、
光が、見えた。それは微かな微かな光。お日様の光ではないだろう。あんなにか細いのだから。私は泳いでいく気力も体力もなく、ただあの光を眺めている。光が二、三回瞬き、こちらへ近付いてきた。何かしら。恐怖心はなく好奇心だけが疼き始める。とうに凍り始めたはずの指先から、心の臓の方へと何かが動き始める。
「こんばんは、お嬢さん」
私の目の前に現れたのは、どこからどう見ても紳士であった。
なぜ、こんな海の中に、紳士?
「不思議そうな顔をしているね、お嬢さん。私は亡霊。沈みきれず、浮かび上がることもできない、ただの亡霊ですよ」
紳士な亡霊はコバルトブルーに染まりながら、くるくると回転してみせた。
「さ、そんな不自由そうに漂っていないで、ワタシみたいに泳いでご覧。気持ちが良いから」
紳士は朗らかに笑う。私もつい、釣られて笑ってしまった。こぽこぽと空気の泡が口から零れて流れていく。しまった、と口を慌てて抑える。紳士は尚も笑っている。
「お嬢さん、慌てずとも大丈夫ですよ、ここは現と夢の狭間。呼吸の有無は問題にすらなりません」
言われて恐る恐る手を離して口を開いてみる。……本当だ。息が苦しくない。というか、息をしていなくても平気だ。
あなたはどうしてこんなところに?
私の問いかけに紳士は寂しそうに微笑んで、そんなことよりも、と遮った。
「そんなことよりもあなたの話を聞かせてください、お嬢さん。ワタシはあなたに会いに来たのですから」
三百六十度の青の中で、私は紳士に向き合った。
私の話なんて、面白くないですよ。
「それでもいいですとも。美しいお嬢さん」
私は呆れて、自棄になって、私のつまらない話を始めることにした。亡霊の紳士に聞かせる程でもない、くだらない話を。
最初のコメントを投稿しよう!