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施設に着くと、夫は最後の別れを惜しむこともなく業務的に施設に入れられた。最後まで、夫は笑顔だった。必死で手を伸ばした。しかし、施設の人は冷酷に、いつも通りであるように、夫を連れて行った。夫が見えなくなった瞬間、恋人は呆然となった。どれぐらいその場に佇んでいたかはわからないが、再び長い時間ゆっくりと歩いて行った道を一人で歩いた。あっという間に家に着いた。満月が昇っていて、きっと海にはたくさんの人魚がいる。夫の肉を喰らうため。自分の子供を産むために。恋人とできなかったことを、人魚はするのだ。恋人は病気で子供が産めなかったのだ。
家に戻ると夫人が相も変わらず騒ぐ声が聞こえた。
いつも二人で飲んでいたお酒を飲む。ひどい味がして瓶ごと投げ捨てると派手な音で飛び散り、床は酒の色が広がっていく。一人では涙が出ない。全てが気だるくなり、奇妙な浮遊感があった。夫の名残をかみしめるように机や、本棚、ベッドを右往左往したが、どこへ行っても涙が出てきた。一つ落ち着くところは庭だった。海の見える庭を眺めると、夫はそこにいるのだと感じてひどく落ち着いた。海の中はどれだけ苦しいだろう。人魚の手で引きちぎられているかもしれない。それとも牙で噛みつかれボロボロにされているのだろうか。そんな苦しい思いをしていると分かっていても、海を眺めることは止められなかった。ずっと見つめ続けていると空が白み始め、日が昇る。空が青くなっていく。
夫はあの海にいる。あの真っ青な水の中に。苦しんであの青になった。恋人を想いながら。
車の音が家の前で止まる。もう夫の友人が来たのだろう。
恋人はまだ夫を思っている。あの青を、ずっと想い続ける。
あの悲しい青を忘れる日は一生来ないだろう。
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