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「その萩は、以前知り合いと作った時に書いた処方箋レシピをそのままに作ったんですよ。どうやら失敗だったみたいで、餡に砂糖と塩を一緒に混ぜてしまったから――塩っぽいでしょう?」
「はい。でも、少しだけですから。それが餡の甘さを引き立てていて美味しいですよ」
「俺の知り合いも、撫子さんと同じことを言っていたよ」
「ふふ、それならその方と気が合うかもしれませんね。その方は、どんな人なのですか?」
「その知り合いは――同じ学府に通っていたんです。まだ俺が簪屋の跡目を継ぐか迷っていた時、その知人が良く相談にのってくれた」
「学府……。この辺りだと、五十鈴(いすず)学府かしら。私もあそこに通っていたんです。実家の跡を継ぐので、和紙の勉強をするために学びに行ってました」
撫子はポンと掌を軽く叩き合わせる。
「俺とその彼女はね、専攻が違っていたから直接棟内で逢うことは無かったんだ。でも、丁度互いの棟の間にある中庭に小さな池があってね。その傍の桜の木の下で、よく逢って話をしていたんだ」
懐かしい想い出に、思わず微かに笑みが浮かぶ。
「長い黒髪と、笑顔が素敵な人でね。散々相談事を訊いてもらった。彼女は俺とは違ってしっかりとした目標と、跡目を継ぐ覚悟を持っていた。でも、だからこそそんな彼女の話をきいて、俺も跡を継ぐ決心ができたんだ」
「その人は、貴方にとってとても大切な方だったんですね」
「ああ。彼女には千の言葉を尽くしても、足りないくらいだよ。でもせめてもの御礼として、彼女が長い髪を束ねられるように簪を作ろうと思ったんだ」
「それは、素敵ですね。もしかして――この白檀の簪がそうなんですか?」
「ああ。だけれど――」
ふっと、彼の貌が暗く翳った。
そして俯くと、額に手を添え柳眉を歪め、か細く啼いた。
「学府を卒業したその日、彼女は事故に遭った。幸い、怪我は掠り傷程度であったけれど……」
「けれど……?」
「彼女は、一部の記憶を無くしていた。俺の記憶だけ――」
「……!」
変わることのない、平穏な日常があると信じて。
渡すべき時が、訪れるのだと疑うことなく過ごしていた。
なのに――その女性が想い人であると気付いた時には、すべてが遅すぎていた。
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