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がたん、と、後ろに引っ張られて足を止めた。
「おいてくればよかった…。こんなもの」
引いていたスーツケースが曲がり角をきちんと回りきれなかったらしく、花壇に埋め込まれた石にあたり、くっきりとかすり傷を作っていた。
ニューヨークから適当な飛行機に飛び乗って羽田に着き、そこからタクシーでマンションまで戻った。しかし、門からからエントランスまで色とりどりの花が植えてあり、その囲い替わりに猫ほどの大きさの石が点在している。
「誰だよ、こんな趣向にしたやつ」
いらいらとハンドルを強引に持ち上げ、乱暴に足元へ下した。
ざあっと木々がいっせいにざわめき、あとから風が追いついてきて、頬をなぶる。
「わかってる・・・」
都心にもかかわらず余裕のある敷地と植栽の多いこの物件を気に入り、即入居を決めたのは自分だ。
自然に囲まれた子供のころの影響で、多少草木が目に入る環境にいないと落ち着かない。
あの花園を嫌って逃げ出したのは、自分なのに。
ため息を大きく一つついて、入口に向かおうとしたその瞬間、若葉の香りとともにねっとりとした甘い空気が憲二を包み込んだ。
「・・・これ・・・」
振り向いたものの、香りのもとになるはずの花が見当たらない。
この甘ったるい香りと花弁を、ことのほか好んだ男たちを思い出す。
長兄と・・・。
「みねぎし・・・」
口に出して呟いてみても、なぜか、いつものようにどろりとした闇が心に落ちることはなかった。
いつからだろう。
彼の言葉も声も、頻繁に思い浮かべることがなくなったのは。
ただ思い出すのは、弟の声。
『香りが先に届いたね』
「・・・くちなし」
いつでも花に囲まれて暮らしていたのに、肝心の名前はほとんど覚えていない。
覚えずとも、必ず誰かが名を口にするからだ。
これは、こういう名前、あれは、またの名前を…。
すぐに忘れてしまう自分に呆れかえりながらも、姉や弟を始めとした家の者たちは、いつも懲りずに何度も教えようとしたものだった。
みんなの躍起になっている姿が面白くて、わざと忘れたふりをしたこともある。
そうしているうちに、花の名前は風になり、記憶にとどめることもなくなった。
だけど、この花の名前だけは、どういうわけか思い出せた。
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