夢で終わらせはしないよ

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 それからもしばらく、少年は変わらず仕立屋に訪れた。  向こうの仕立屋は今もプリプリ怒っているが、誰がどう言っても少年はめげないし、あの翡翠の瞳に見つめられると一家は強く追い返すことが出来なかった。仕方ないと諦めてから、フィラアナはせっせと菓子を焼くようになった。  台所でクッキー生地を練っていると、通りがかった母がふふっと笑った。 「ドレスを縫っている時くらい熱心ね。」  フィラアナはきゅっと眉を寄せて振り返った。 「そんなことないけど……。貴族のお坊ちゃんがいらっしゃるんだから、ちゃんとおもてなししないとダメでしょう。」 「そうねー。」  母のにこにことした笑みは、娘にはにやにやとからかい混じりのものに見える。 「……何。」 「通りのお菓子屋さんで買ってきた方が見栄えも良いし、楽なんじゃないかしら。」 「家にそんなぜいたくする余裕はないでしょ。いじわる言うんなら、母さんにはあげないから。」 「あらあら、ごめんごめん。」 「もうっ。」  丁度クッキーが焼けた頃、少年はやってきた。  小さな鼻をひくひくさせて、ぱっと顔を輝かせる。期待に満ちた翡翠がフィラアナを見上げた。思わず苦笑がもれる。 「お茶にしましょうか?」 「うん!」  小さな金色がダイニングを走り、ぴょんと椅子に飛び乗る。  お茶会にお菓子もないなんてかわいそうだとか、きらきらした大きな目がかわいいだとか、そう思ってしまうのだから、もう仕方がないのだ。  ***  彼が大きくなるに連れて、来訪の間隔は空いていった。  8歳には週二回。10歳には週一回。  決まって金曜日に来るようになったので、毎日お菓子を用意しておく必要はなくなった。母の腹回りも安泰である。  父に仕立てを、母に家事を習ったフィラアナに、貴族の子息に必要なものなんて想像も出来ないけれど、きっと他の子よりも習うべきことが沢山あるのだろう。きっと、やるべきことが沢山あるのだろう。  あの子は下町に迷い込んだだけ。こうやって少しずつ元の世界に帰って行くのだ。  ***  目の端で緑色がキラリと光った。  もう用事も済んでいて、市場を通り抜けるつもりだったのに。その光に引き寄せられて、思わず足を止めてしまう。露店のおじさんが振り返った視線に気がついて、にかりと笑った。骨太の指がフィラアナを招く。紙袋を抱え直して、店に近づいた。  深紅のじゅうたんの上に並べられた木製ケースには、きらきらと色とりどりの光が詰まっている。指輪の赤は、夕陽の色。ペンダントの青は、晴れた空の色。  瞳に似ていると、おじさんはブローチを見せてくれたけれど、フィラアナが手に取ったのは一組のカフスボタンだった。褐色のシンプルな台に、木漏れ陽色の石がはまっている。  買えないだろうと思って聞いた値段は、手の届くもので、フィラアナは目を丸くした。 「こういう石が沢山採れる国があってね。このサイズだとこんなものさ。」 「へー。こんなに奇麗なのに。」  フィラアナはじっと手元を見つめた。どうしよう。手の中のきらめきが手放しがたい。  これくらい。うん、これくらいなら、良いかな。父と母に面白いものがあったと報告になるし。 「フィラアナ?」  おじさんにお金を払っていると、後ろから顔をのぞき込まれた。驚きに肩を揺らして距離をとる。相手は見知った青年だった。  近所のパン屋の次男坊で、小さい頃に一緒に走り回った遊び仲間の一人だ。 「よう。それ、どうすんだ? おじさんにか?」 「ううん。ちょっと参考にね。」 「ふーん?」  青年の視線から隠すように、フィラアナはカフスボタンを紙袋にさっとしまった。知り合いに見られたことが何となく気恥ずかしい。 「なら、さっき細工物の店があったぞ。一緒に行くか?」 「ううん。お使いの途中だから、もう帰らなきゃ。」 「別に、ちょっと寄るくらいなら問題ないだろ。子供じゃあるまいし。」  青年がむっと眉を寄せた。フィラアナは笑ったが、眉が八の字になる。 「でも、今日は金曜日だから。また今度ね。」  怒らせたくなんてないのに、青年の顔はさらにしかめられる。 「また今度、また今度って、お前の予定はいつになったら空くんだよ。」  苛立ちの混じった声に、フィラアナは困ったように笑みを深くする。  その時、二人と歳の変わらぬ男の声が、遠くから青年を呼んだ。ついっと青年が振り向いた隙に、フィラアナは市場の人波をくぐった。呼ぶ声が背中にかかる。  青年の隣に並んだのは友人の一人だった。そちらもフィラアナを呼ぶ。  二人へ手を振りつつも、フィラアナは立ち止まらなかった。そのまま道へと抜けて、家へと急いだ。  ***
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