夢で終わらせはしないよ

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「フィナー。」  火曜日の午後。  一階の作業場でジャケットの飾りを縫い付けていたフィラアナは、店裏から聞こえた声に驚いて手を止めた。ジャケットを作業台に預け、廊下へ駆ける。ダイニングを通って勝手口を出ると、緋色の塊が飛びついてきた。  被っていたフードが脱げて、パサリと肩に掛かる。ふわふわした金色が露わになった。少年が、ぎゅうっとフィラアナの腰に抱きついて、腹に顔をうずめた。  抱きつかれることは珍しくない。しかし、いつもの彼なら顔を上げて笑みを見せてくれるのに。 「クリス様、どうされたんですか?」  金色のつむじに呼びかけても、しがみつく腕の力が強くなるだけで、返答はない。フィラアナは首を傾けて、彼の顔をのぞき込んだ。  エプロンに埋もれて表情は見えない。ほほが、いつもより赤い気がした。 「クリス様?」  もう一度呼ぶと、たっぷり間を開けてからくぐもった声がこぼれてきた。 「……何でもない。」  幼い声には不満がにじんでいる。何でもないというのなら、その膨れたほほには何が詰まっているのやら。  フィラアナはため息をかみ殺した。小さな背をぽんぽんとたたく。 「そろそろ休憩にしようと思っていたんです。お茶に付き合ってくれますか?」 「……ミルクティー入れて。」 「はい。」  少年を促して、ダイニングの椅子に座らせる。今日は菓子がないので、クラッカーとリンゴジャムを出すと、パリパリとかじり始めた。フィラアナは鍋にミルクを注ぎ、火にかけた。  話を聞くべきなのだろうか。  子供の悩みというものは、本人にとっては明日をも知れぬ大事だったとしても、大人にとっては大したことではなかったりする。もうフィラアナも二十歳であるし、小さな両手に収まらないものを、半分ポケットに預かることくらい出来そうなものだ。  ただ、この王子様の悩みが、町の子供とそう大差ないものであれば、だが。  フィラアナはちらっと背後を振り返った。少年の白いほほにクラッカーが詰め込まれてもごもごと膨らんでいる。そのまま、嫌な気持ちもかみ砕ければ良いのだけれど。 「クリス様、どなたかとケンカでもなさったんですか?」 「……ケンカじゃないし。」  行儀良く、ゴクンと口の中のものを飲み込んでから返された声は、まだ沈んでいる。  誰かとケンカではない何かはあったらしい。ご両親かお兄様方に叱られでもしたのだろうか。  ミルクティーをカップに注いで、少年の前に出す。彼は両手でカップを抱えて、フーフーと息を吹き込んだ。一口飲んで、隣に座ったフィラアナを見上げる。 「今、何つくってるの?」 「私はジャケットを。あと、何着かドレスの直しを任されていますよ。」 「ジャケットってどんなの?」  一口一口、カップを傾けながら少年が質問を繰り返す。自分の方の話をする気はないらしい。フィラアナも、話したくないならと、彼への返答に徹することにした。  クラッカーも二杯目のミルクティーも空になった。両手をまっすぐ突き上げて、少年がぐーっと伸びをする。 「んーっ! よし!」  ぴょこんと椅子を降りて、フィラアナの右手をぐいと引いた。座ったままのフィラアナと少年が向かい合う。こちらの手を、ぎゅっと小さな両手が包んだ。  まっすぐ見つめてくる翡翠の瞳には、いつものきらめきが戻っている。 「フィナ! ボク、がんばる!」 「はい。クリス様。」  フィラアナは微笑んでうなずいておいた。何のことかは分からないが、せっかく戻った輝きを曇らせたくはない。  悩みを聞いてあげることすら出来なかったけれど、それを飲み込む手助けが出来たのなら、良かった。 「じゃあ、また来るね!」  緋色のマントが金色を隠す。大きく手を振って、ぴょこぴょこと走り去って行く。それがレンガの影に見えなくなるまで見送って、フィラアナは店の中に戻った。  ***  12歳には月一回。  来訪の前に手紙が来るので、それに合わせてフィラアナは茶菓子を用意する。少年も、お土産だと花を持ってくるようになった。  サイズこそ小さいものの、まるで花嫁のブーケのように華やかなそれを、素材そのままの木製テーブルに飾るのは戸惑われて、ある日からテーブルクロスを用意した。  ザラザラした木目の粗い生成りのクロスだが、角に刺しゅうを施してみた。フィラアナの目にはなかなか立派なお茶会に見える。むしろお茶請けのご家庭マフィンの方が浮いている。  何かの折に、市場で買ったカフスボタンの話を母がしたからだろう、彼は何回か飾りボタンも持ってきてくれた。繊細な細工彫りのものや、キラリとした石がはめ込まれたものを。高価なものは受け取れないので、親子三人でしげしげと眺めてから彼に返した。  ***  14歳には半年に一回。  その日、少年は大きな銀ボタンを持ってきた。青い石がはめられていた。いつか見たブローチとは違う、混じりけのない深い青は冬の湖のようだ。  彼は一着のベストをフィラアナに渡した。広げて見ると、少年のものにしてはまだ大きかった。不思議に思って首をかしげると、彼はさっきの銀ボタンを突きつけてきた。 「ここのさ、一番上のボタンをこれにして欲しいんだ。」 「私が付けるんですか?」  彼の衣服は、ご両親と同様にちゃんと向こうの仕立屋に任せているはずだ。今手にしているこれも、フィラアナが普段扱っている物と生地の質が全然違う。困ってベストを見つめていると、少年の大きな目が視界に割り込んできた。 「ね、お願い。フィナに付けて欲しいんだ。」  フィラアナはため息をついた。否と言えない自分にあきれる。  ただ縫い付けただけなのに、彼はいたく喜んで、丈の合わないそれを着て帰って行った。  ***  16歳には、彼は仕立屋に来なくなった。  それが自然なことなのだ。ようやく、彼も当たり前のことが分かったのだ。  貴族と下層の町娘など、友達になることすら不自然なこと。  どんなに末っ子に甘い領主様でも、身分違いの結婚などお認めにならないこと。  貴族が結婚するということが、当人だけの問題ではないこと。  貴族の花嫁に必要なものは、働き者であることでも、料理上手であることでもないこと。  兄への憧れと迷子の心細さが産んだ勘違いなんて、恋ですらないこと。  ***  帽子に付ける青い薔薇の飾りを縫いながら、フィラアナはため息をつく。ため息をつく度に幸せが逃げるという話が本当なら、フィラアナが逃した幸せはとてもじゃないが数え切れないだろう。  馬鹿なことをしたものだと思う。  今日、パン屋の青年が町を出て行った。  青年は一緒に行こうとフィラアナに言った。フィラアナはただ首を横に振った。 「約束なんて、チビ助はもうとっくに忘れてるだろ。」 「そうね。でも、あと二年だから。」  フィラアナは笑った。青年は悔しそうに顔をゆがめて行ってしまった。  馬鹿なことをしたものだと思う。  約束を守るフリの、フリをしていた。  心のどこかで、町娘は王子様のお迎えを待っていた。来る訳がないと知りながら。  どんなに善良でも、どんなに働き者でも、町娘がヒロインになるなんて、おとぎばなしでもない限り無理なのに。ましてやお姫様になるだなんて、魔法使いでも現れない限りかなえられない。  薬屋の娘は、仕立屋に恋をして仕立屋になった。仕立屋の娘だって、パン屋に恋をしたらパン屋になれただろう。けれど、貴族に恋した仕立屋は、一生仕立屋のままだ。  小さなカフスボタンが返す緑の光に、いつか自分を追いかけた、透き通った翡翠を重ねて物語を終える。  ***
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