青への憧憬

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女神様が住むと言われるその泉は、幼い頃から決して立入ってはならぬと、うんざりするほどに祖母から言い聞かされて育った。貴い神が住まう神域だからというわけでもなく、幼い子供が溺れ死ぬことを恐れてでもなく。その理由は、女神様の美しさに魅入られて、人の世に帰ってこられなくなるからだそうだ。  私の中の一番美しい記憶は、目の覚めるような透きとおった青の記憶である。あれは、亡くなった祖父に連れられて、件の泉に初めて行った時のことだ。誰にも内緒だと幼いながらに約束をさせられ、祖父に手を引かれて、朱い鳥居を潜り、神社の裏手から延びる山道を登った。その当時は知らなかったが、禁域のためか、すれ違う人もいなかった。季節は夏で、とても暑く、蝉の鳴き声が耳にうっとうしかったが、泉に近づくに連れ、鳴き声は遠のき、そして空気はひんやりとした冷たさを含んだものに、徐々に変わっていった。  そして、今でも私の心を捉えて離さないその青は、突如として目の前に現れたのだった。真夏の陽の光を孕み、きらきらと輝く水は、どこまでも透きとおって、どこまでも青かった。そこここから湧き出す清水の揺らめきで、水面は乱れ、様々な青を生み出していた。水色、浅葱、群青、百群、緑青、瑠璃、千草、藍、紺青。光と影のすべての陰影は、様々な青で作られていた。水底は意外にも浅く、まばらに生える水草は、しなやかに伸び、水面で碧く、時には紅く染まった葉を遊ばせていた。その中を朱や白、銀や青鈍色の鯉が優雅に泳いでいった。 当時の私は、それほど色の名前を知らなかったけれども、そこは様々な青の色彩に溢れ、今でもその豊かな色の一つ一つを表現できる術を私は持たない。 少年の私は、一目で心を奪われた。だが、それよりも、本当にこの時、魅入られてしまったのは、祖父だったのかもしれない。 祖父は、泉のほとりに佇むと、ぼうっと泉を見つめ続けた。私も長い間、隣で同じように泉を眺めた。泉の表情はとても豊かで、水面が、風や湧き出る清水、鯉が泳ぐことでできた漣で乱され、その度に生まれる様々な青に、私は夢中になった。 だが、子供の好奇心というのは、一所に留まるものではなく、私はただ黙って眺めることに飽きてしまったのだった。
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