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ところが、智雪の答えは違っていた。その人は命の恩人なのだと、ただ嬉しそうに微笑ったのだ。
智雪とは一番付き合いの長い坂野が、一体いつそんな命に拘わるような危機に直面したのだと、それはもう見るも哀れに動揺して詰め寄ったことがあった。が、その一点に関してだけ智雪は頑なで、困った顔をするばかりで何も話そうとしない。
坂野もやがては折れて、そのことに触れることはなくなった。無理強いするのではなく、待つことにしたと言っていた。坂野は、いつか時が来て、智雪が自分から話してくれるのを待っている。
そうして未だ相手もその拘わりも謎のままに、智雪は今日もこうしてここにいる。大学からの交通の便もよく、繁華街にあるバイト先の居酒屋までは徒歩五分という立地。おまけに智雪にとっては絶好のロケーションである人通りの多いこの場所で、見下ろす街の雑踏の中、いつか彼女が現れる――そんな奇跡のような瞬間を夢に見て。
「あの写真、もう一回見せて」
独特の、大阪弁のイントネーション。野上が手を差し出すと、智雪は手帳の中にしまってあった写真を、実にあっさりパールピンクのマニキュアが光る指へと預けた。
その時、微かに触れた細い指先。智雪はふと思い出す。
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