Ⅰ 雑踏

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 智雪は右手で頬杖をつき、その人混みの中にじっと真摯な眼差しを落とす。視線の向かう先はいつでも同じ。華奢な背中に長い髪を垂らした、二十代半ばの若い女性だ。  ・・・と、その時不意に、嗅いだ覚えのある甘い香りが鼻孔をくすぐって、 「智雪みーっけ!」  香りの主を思い出す間も、振り返る暇もなく、明るい張りのある声に名前を呼ばれた。ついでに背中から全体重でのしかかられて、智雪はあやうく目の前のウーロン茶入りの紙コップに顔から激突しそうになった。 「やっぱりここにおったんや」 「野上(のがみ)・・・」  肩越しに振り返ると、レイヤーの入った茶色い髪を軽く肩に流して、まつげぱっちり完璧メイクの美人がすぐ間近で微笑んでいる。細身のしなやかな体を包むのは、シンプルな黒いニットのワンピース。超ミニの裾からは、ブーツへと続く綺麗に引き締まった白い脚がのぞいている。  夕方四時過ぎという時間帯にしてはたむろする学生も少なく、店内は意外に閑散としている。それでも突然響いた明るい声と、元々そこに立っているだけでも目立つ野上の存在が思いきり周囲の人目を引いてくれた。気にならないのか慣れているのか、集まる視線を全くと言っていい程無視して、野上はスッと滑り込むような動作で、断りもなく空いていた向かいの席に腰を下ろした。     
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