0人が本棚に入れています
本棚に追加
「へえ……おぼえてますか以外に何も言ってないのに。よくわかりましたね」
「ふん。お前がそれを私に問うたのが何回目だと思っている」
あなたは鼻で笑ってから背後のバーカウンターに背をあずけ、ワイングラスを口にした。
「あの時、なんて言ったのかもおぼえてますか」
「さすがにそこまでは」
「『それは顕微鏡のスライドガラスに情報を記入するための道具だ。皮膚を掘るなり命を絶つのに使う気なら、今すぐ返せ』だったんじゃないですか」
そうだったっけ――とあなたは腰に片手を当てて大笑いする。先生のその、首を素早く仰け反らせて髪を振り回す笑い方が、僕はとても好きだ。
胸の内がぎゅっと狭くなった気がした。
「あれからどうしてあなたは、僕を寄せ付けたのですか」
「どうしてかな。受験で失敗をしたら生きていけないと呟く切ない声が、人生に迷ったような瞳がひどく哀れで、狂おしいと思ったのかもな。ほうってはおけないさ」
先生はふふっとひとりでに笑う。ワインに赤く染まる唇が、舌が、それこそ僕を狂わせる。
食卓にのせた腕が、耐え難い衝動を堪えるようにうねる。僕はプレースマットに爪を立てた。
「第一志望の大学に受かったんです」
「知っているよ。おめでとう、努力の甲斐あったな」
あなたの声はとても静かだ。わかっているのだ。僕は遥か大西洋の向こう側に行く。
――あなたが大好きです。今までありがとうございました――
告げる。
囁く。
「だから綺麗に忘れてください」
最初のコメントを投稿しよう!