〈 はじめに 〉   接吻に見る三者の考察

1/6
71人が本棚に入れています
本棚に追加
/63ページ

〈 はじめに 〉   接吻に見る三者の考察

〈 サンプル1 〉    カスミさん。  僕たちは今まで、何度口づけを交わしてきたのだろうか。  僕は貴女も承知のとおり、統計学者などという仕事柄ゆえに、いわゆる記録魔な性分で、今までも好物の餡ぱんを食してきた回数や天気予報のあたりはずれ、家から出る一歩目の足が左右どちらだったかなど、日常些事のあらゆる物事を記録してきたわけだけど、さすがに貴女との口づけの回数を記録する事まではしていなかった。  いくら研究馬鹿でも、それくらいの弁えはある。いや、貴女がそういう良識を世間知らずな僕に与えてくれたのだ。  仕事柄といえば、貴女はよく僕の事を『研究に魂を売った人』などと言っていたけれど。申し訳ない、僕にはそれが最高の褒め言葉にしか聞こえてなかった。まさかそれが貴女なりに精一杯の僕に対する揶揄だったとは。助教の津田君に指摘されて初めてそうだと分かった時は、穴があったら入りたい、この慣用句の意味を嫌と言うほど痛感させられた。  ところで、カスミさん。  貴女は、今まで僕に関わってきた女どものように妙に馴れ馴れしかったり、理不尽な我儘で僕を振り回して困らせたりはしなかった。それどころか、いつも僕が一人で勝手に煮詰まっていると、すっと寄り添って、そうっと手をつないでくれたね。  柔らかくて小さい、まるで和菓子の練り切りのような貴女の手が、節くれだった惨めな僕の指先をきゅうと握る度、何度も何度も僕は心をときめかせていたんだよ。いい歳をした者が何を今さらと、貴女は呆れるだろうか。
/63ページ

最初のコメントを投稿しよう!