第1章 2018年2月初旬

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「笹木さん、ごめん……」 須藤の力無い声が聞こえてきた。 しばらく3人の会話が続き、やがてひとつの足音が遠ざかっていくのが分かった。須藤だろうか。 その足音が小さくなってから、麻衣子の声。 「ありがとうございます……井上さん」 猪飼は心の中で「あっ」と声を上げた。 ───そうだ、井上くん。 名前を思い出し、すっきりとした気分になる。 ほどなくして更衣室のドアが閉まり、井上が遠ざかっていく気配を感じると、猪飼は安堵のため息を吐き出した。 どうやら、彼のおかげでこの場はなんとか乗り切ることができたようだ。麻衣子も、自分も。 のろのろとテーブルに戻り、飲み終えたペットボトルをゴミ箱に入れ、バッグを持つ。 廊下に誰もいないのを確認すると、猪飼は足音を忍ばせながらそろそろと進み、エントランスホールを突っ切ってビルの階段へと足を入れた。 階段を下りながら、先ほどの須藤と麻衣子の会話を思い返す。 3階の踊り場にさしかかったところで、猪飼はつと足を止めた。 それから、バッグからスマートフォンを取り出した。 ───知らせておいた方がいいかな。 ディスプレイに速水の連絡先を表示すると、猪飼はそこに細い人差し指をトンと乗せた。
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