ブラザー・コンプレックス

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家に帰ると、引きこもりの兄がいなくなっていた。 父は慌てて、母は憔悴しきりである。僕は通勤カバンを床に放ると、ソファに沈んで深く長いため息を吐く。 「まったく迷惑極まりない」 父は僕を激しく責めて、母はおいおいと泣き出した。なんという非情、なんという不義理! 僕はまさにこの家における、数多の災厄の権化であった。 「兄貴は弟を助けるもんだ。昔からそう決まってる」 兄は元々優秀な人間であった。 勉強は出来るし、運動だって誰にも負けない。背が高くて顔も良いので、いつの時代もとにかくモテた。けれど進学先でも就職先でも、いつも僕の送り迎えや家庭学習に心血を注いでいたので、恋人というものができたことがない。 そこがまた女心をくすぐるのだろう。人生のほとんどを白い病室で過ごしていた僕には理解出来なかったが、のちに彼女はそう語る。 兄は僕の自慢だったし、兄もそうであることがなによりの誇りだと思っていた。昔から要領が悪く手を引かれるばかりだった僕と違って、兄には出来ないことなどないように思えていたし、事実、彼が挫けたのを見たのは人生で1度きりである。 「昔って、いつ?」 「俺が生まれて、やっとお前に出会えるまでさ」 たった1度だ。 けれどそのたった1度でぽっきりと折れた完ぺきな兄の人生は、もう2度と元には戻らない。阿呆だと思う。そんな下らないことで、と嘲笑さえこぼれるほどで、まったく迷惑極まりない。 「兄貴は弟を助けるもんだ。奪うなんて以ての外だ」 今となっては、これが兄と僕が交わした、今生最後の台詞である。 兄が泣いているところをはじめて見た。けれど僕は、兄を慰めるわけにはいかなかった。僕は兄の弟で、兄は僕の兄だったからだ。 うずくまっておいおいと泣く兄を見下ろしながら、どうしてあんな女に惚れたのだろうと、いまさら自問自答を繰り返していた。僕が惚れてさえいなければ、僕が初恋など覚えなければ、兄に近づくためだけに僕を誘惑した女の舌を、噛みちぎって捨ててやれたに違いないのに。 僕は傷ついていた。そのことをとても後悔した。 僕は兄に救われたかった。 それこそが兄の望みだった。
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