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1.嵐を呼ぶアリス
『使用済み歯ブラシで炎上 お騒がせモデルA』
洗面台でガラケーに入ったネットニュースを眺めていた凪人はぽろりと歯ブラシを取り落とした。
記事によるとネットオークションに出品されたとあるモデルの歯ブラシを十万円で落とした落札者が唾液等を確認する検査にかけたところ未使用の状態だったと判明し、落札額と検査料と慰謝料あわせて三十万円余りを請求したというものだった。
(……くっだらねぇ)
それ以外の感想があるものか。あまりにバカバカしくて日本はなんて平和なんだろう、というところまで思考が飛んでしまう。
しかし平和なのはこの黒瀬家も同じだった。
「はぁー、やっぱり黒猫探偵はいいわね、何度観ても感動する。もう一回観ちゃおっかな」
リビングでずびずびと鼻をかんでいるのは母の桃子である。丸めたティッシュがゴミ箱の周りに散乱して宇宙人でも召喚するようなサークルを描いているように見える。
「またソレ観てるのかよ、もう何千回目だよ」
うんざりしながら洗面台でうがいを済ませた。桃子は悪びれた様子なく肩をすくめる。
「だってぇ、何度観てもいいんだもの。凪人にはこの良さが分からないのね」
「どーでもいい。今週は週番だからもう行くわ」
慌ただしく制服の上着をはおって玄関に向かうと母が見送りに出てきた。スニーカーを履く息子の背中に声をかけてくる。
「高校生活は大丈夫なの? いじめられてない?」
「苔みたいに目立たず地味に過ごしているから大丈夫だよ」
「例の症状は?」
「だいぶ良くなっている。成長に従って落ち着くって先生も言ってたし……よしっと」
立ち上がってスニーカーをなじませる。いい感じだ。
「とにかく無理はしないようにね。マズイと思ったら周囲に助けを求めること」
「大丈夫だってば。母さんこそ、店の準備はいいのかよ?」
母は自宅の一部を改装してカフェを営んでいる。『黒猫カフェ』と名付けられた小さな店だ。
「いいのいいの、どうせお客さんもほとんど来ないんだし」
経営者としての危機感がまるっきり抜けている母だが、わずかながら利益を出して営業できているのだから大したものだ。
「んじゃ行ってきまー……」
玄関扉を開け放ったとき、リビングから録画の音声が聞こえてきた。
『黒猫探偵レイジ、はじまるにゃ』
明るい声から逃げるように凪人は黙って家を出た。
『黒猫探偵レイジ』は、人間の言葉を話す不思議な黒猫・まっくろ太を拾った小学三年生のレイジが数々の難事件を解決しながら種族の違いを超えて絆を深めていく物語である。
子ども向けのチャンネルで毎日十五分だけ放送されていたところ人気に火がつき、一時間ドラマにもなった話題作である。当時は黒い猫耳カチューシャにゴシックスタイルをまとった黒猫ファッションが流行し、信頼と愛情を確認する「もふタッチ」は流行語大賞にもノミネートされるほどの盛り上がりだった。
映画の制作も決定し、ゆくゆくは日本を代表する作品となるところだったが――――六年前、人気絶頂の中で突如放送が終了し、主役の小山内レイジは芸能界から姿を消した。
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