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――ざわめきが戻ってくる。
一瞬意識が飛んでいた凪人が目を開けると、既に電車は到着していた。
「え、なになに?」
「飛び込み自殺?」
「なんか知らないけど男の子がタックルしたの突然」
出入りする客たちが何事かと視線を向けてくる。立ち止まったり手を差し伸べてくれたりするわけでもないのに興味本位の視線ばかりが痛い。
(――見るな)
どくん、と体が震えた。
(見ないでくれ)
咄嗟に口を押さえて呼吸を止めた。
じわじわと這い上がってくるのは今朝食べたトースト。牛乳。ヨーグルト。
体の中を逆流してくる。
「……いったぁ」
横倒しになっていた少女がうめいた。
「あっ……ごめ」
命を救うためとは言え人前で押し倒す形になってしまった。
とにかく一刻も早く立ち上がろうと手をついた凪人は、自分の指先に絡む奇妙な感覚に気づいた。
(えっ?)
真っ黒な毛の塊を掴んでいる。呪いの類でなければこれは一体。
「――それ、私の」
恨みとも悲しみともとれる声が吐き出される。
「私のウィッグ、取った」
顔と覆ってうつむいている少女。その頭部はヘアネットとヘアピンで地毛をまとめており、人目にさらされるにはあまりにも恥ずかしい姿だ。
(なんで、ウィッグ、なんで、こんな状況に……)
「どうしてくれるのよ。こんな醜態さらしてネットに――――えっ」
少女と目があった。凪人自身パニックに陥りながらも、日本人離れした顔立ちとターコイズの瞳に焦点が合う。しかし少女の顔に浮かんでいたのは怒りや悲しみではなく、
「……うそ、まさか」
驚愕に目を見開いて、恐る恐る手を伸ばしてきた。
しかしそれは途中で止まる。
「ねぇちょっとあれって」
先ほどの中学生が声高に叫んだからだ。
「うそうそうそ」
「うそじゃないよ、だってどう見ても」
急に騒がしくなる。我関せず素通りしようとしていた乗客たちが足をとめて覗き込んでくるほどに。
凪人はぎょっとして固まった。
目、だ。
朝の通勤・通学ラッシュで次々と人が行き来する。到着する電車は呼吸でもするように乗客を吐き出しては吸い込んで去っていく。そんな彼らの何十、何百という視線が自分たちに集中しているのだ。
「なんか芸能人がいるって」
「ちょ、見たい」
「押すなバカ」
狭いホームは押し合いへし合いで大混乱。あちこちでシャッター音が響き渡る。
背筋を氷塊がすべり落ちた。
(やば……っ)
顔面蒼白で口を押さえるが目の前の少女はまるで気づいていない。黒髪のウィッグを取り戻してかぶり直すと周囲に鋭く視線を巡らせた。
「あぁまずい、気づかれちゃった。ここじゃなんだから別のところで話でも――」
凪人はそれどころではなかった。
胃が震えて吐き気がこみあげてくる。反射的に手で口を押さえたものの一度痙攣しはじめた胃は止めようがない。必死に唾を呑んで押し返そうとするが、あふれんばかりに胃液が押し寄せてくる。焼けつくように喉が痛む。
「だいじょうぶ? 顔色悪いよ」
ようやく異変を察した少女がびっくりしたように手を伸ばしてくる。
「もし良かったら私の」
もう限界だった。
「え、ちょ、ちょっと」
脱兎の如く、とは正にこのことだろう。
凪人は走った。人ごみを押しのけ、掻き分け、走って走ってトイレに飛び込み――。
「うぇえええええええ」
思いっきり吐いた。
少女が誰でなんと言っていたかなど、もうどうでも良かった。
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