第二部 一 昔の恋人

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「優子が毎日行くと俺が嫌味言われるんだよ」  あまりに思いがけなくて、一瞬何を言われたのか把握できず、私はその言葉を頭の中でリピートさせた。それでも正樹の口からそんな言葉が出たということが信じられなくて、もしかして何か聞き間違えたのかと思った。  よくよく話を聞くと、お母さんから電話があって「週末くらい来れないの? 優子さんは毎日来てくれるのに」と言われたそうだ。  正樹の言葉は、本当に言葉通りの意味だった。聞き間違いでも意味の取り違いでもなかった。  私が、毎日行くと、正樹が、嫌味を言われる、だから、もう行かなくていい。  例えば、私が至らなくてお母さんが不満を洩らしているということなら、多少傷ついても納得できたと思う。お母さんも一人で過ごせる日が欲しいだとかなら、もちろんその気持ちを尊重する。もしかしたら正樹が疲れている私を気遣って、無理しなくていいと言おうとしてくれているのかも、という期待も無くはなかった。  でも、ただただ自分本位な理由だった。そのことに私は深く深く傷ついた。  それまで約二ヶ月、自分の時間をほとんどお母さんに費やして来た。それがお母さんの助けにも正樹の助けにもなっていると信じていた。実際それは間違いなかっただろうと思う。それでも、お母さんが洩らした愚痴の一つで私の献身を踏みにじれる程度にしか、正樹は私を想ってはいないのだ。  翌日すぐに正樹は謝ってくれた。  ここのところずっと、仕事でストレスも疲れも溜まっていて、気持ちに余裕がなかった。東京まで通って仕事している優子に、帰路を変えさせてまで母親の世話を任せていることに負い目も感じていた。そこに母親まで自分を責め始めたから、ついイライラしてしまったと。  私は正樹を一言も責めなかった。 「いいよ、もう」  ただ、そう言って、 「私こそ、気が回らなくてごめん」  ただ感情の無くなった心に浮かび上がる言葉を口にした。  結局、お母さんのところには、改めて正樹に頼まれて、治るまで通った。  完治したタイミングで、私は正樹に別れを告げた。  傷つけられたことを許せていないのではなかった。でも、これまでずっと心にあった“正樹と生きていこう”という気持ちは、消えてしまった。  それまでの優しい正樹が嘘だったのではない。よほど余裕がなかっただけなのだということは重々わかっている。はたから見れば取るに足らない一言なのかもしれない。  それでも、一度失った気持ちは戻らなかった。  
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