第二部 一 昔の恋人

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 それを聞いて、少し顔がにやけてしまった。 「ふーん……」 「なんで笑ってんの」 「ううん、何でもない。そんなに重く考えてないよ。桜井さんすごいなーって逆に感心した」 「そうか、ならいいけど……」  私はコーヒーを一口飲んだ。正樹はまだ少し気がかりな様子でカップの持ち手を触っていた。  喫茶店の中はほぼ満席で、年配の女性が思いのほか多く、おしゃべりの声で賑わっていたので、店内に流れているジャズはうっすら聞こえている程度だった。カウンターの向こうではサイフォンが次々とコーヒーを抽出していて、テーブル席にいる私達からもよく見えた。  正樹はコーヒーが好きだった。家でも自分で豆を挽いてハンドドリップで入れていた。コーヒーの美味しいお店にも、二人でたくさん行った。ブラックで飲むのを覚えたのも、正樹とつき合ってからだった。 「お母さん元気?」 「優子のおかげさまで。“優子さんは元気かしら”って、よく言ってる。母は優子のこと大好きだったからなあ。家に通ってくれてた時も、娘が出来たみたいで嬉しいってずっと言ってた」 「そうだったんだ……」 「そんなことも伝えないままで、無理させっぱなしになって、本当、何やってたんだろうな、俺」 「仕方ないよ、あの時は現場すごく忙しかったしね」 「優子、俺さ」 「うん」 「優子が本社に行って、少し嫉妬しちゃってたんだよね。同じ会社にいて、年下の彼女のほうが上の組織に上がって、気にならないつもりだったけど、無意識に焦りや惨めさを感じてた。そういう気持ちになったこと自体が情けなくてさ。優子と別れてから、自分も頑張って本社に行こうと思ったんだ」 「そうなんだ……」  私はこの時に聞くまで、正樹がそんな気持ちだったなんて全く知らなかった。正樹と自分を比べるようなことは考えもしなかったし、私は私が働きたい場所に行ったというだけで、自分が正樹より上に行ったという意識もなかった。 「それで来てみたら優子、社長秘書になってたからびっくりした。また手の届かない人になったなぁって」 「全然だよ……。秘書なんて何もエラくないし、会社に対してもお客様に対しても何も直接的な利益を生み出せない。秘書の仕事は好きだし、性に合ってるとも思うけど、ね」  この仕事で本当にいいのかな、私がやりたかった仕事って、本当にこれだったのかな、という思いは総務の時からずっとある。
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