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「ねえ、お父さん」
「うん?」
「どうして私は産まれたの?」
それは、生物学的な意味を問うてはいない。夕暮れが刺す一室で、感情を殺した彼女の声は、大人の香り仄かに纏う。
僕はそれに答えない。
「そう」
無言の返事に、彼女は一言そう返す。赤く腫れた逆剥けを、彼女は黙ってそっと噛む。
「お父さんは、私の人生について、知りたいと思う?」
僕はチラリと目を向ける。制服の襟の隙間に見えた、鎖骨が穏やかに上下する。彼女はいつの間に、紅を差すようになったのか。そして、ゆっくりと瞼を閉じる。
「ねえ、」
口の中が、徐々に乾きを訴える。何かおどろおどろしいものが、僕の記憶の奥底を、こじ開けようと蠢いている。
「お父さんも、こんなこと、考えたことある?」
彼女は抑揚のない声で言う。
「ねえ、」
「大丈夫」
僕はそっと瞼を開けて、彼女を遮るようにそう言った。
「何が、何が大丈夫なの?」
彼女の声は、少し震えを帯びている。
「大丈夫」
僕はそこで、大きな一呼吸を置いて言う。
「何もかも、ダメかもしれない。けれども、大丈夫なんだ」
彼女は何かを言い返そうと僕を見て、言葉に詰まり目を閉じる。呆れたように、疲れたように。彼女は肩で返事する。
あれはいつの事であったのか、もう遠い昔の事だった。
忘れてしまった。
失くしてしまった。
もしくは自ら捨てたのだ。
グロテスクなほどに生々しい、感覚に支配されながら。
彼女は独り、頬杖をついて外を見る。
「大丈夫、だったら、いいなあ」
彼女のその掠れた声は、僕に看取られ消えてゆく。
彼女は遠くを見つめたままで、優しく逆剥けを撫でてやる。
そして、時間が過ぎるのを、ただひたすらに待っていた。
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