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誰もいないと思っていた。
もう間に合わないと思っていたのに、駆け上がった、駅のホーム。自動販売機にもたれて、ちょっと太めのシルエットがおれを待っていた。
待っていて、くれたんだ。
「……」
震える足で近づくと、あいつが涙をぬぐうのがわかった。おれはそれを笑えない。だっておれも泣いていたから。おっさんふたりが駅のホームで涙を流すって、周りからみたらキモイ以外の何物でもないだろう。だがそれでも、めったなことでは泣かないあいつの涙におれの胸がきりきり痛んだ。
「……ごめんっ。おれ……っ」
あいつの前にたどり着いたのはいいが、言葉につまってそれ以上、何も言えなくなった。頭の中がぐちゃぐちゃでまとまらない。それでもおれは戻ってきた。こいつの所に戻らずにはいられなかった。そしてこいつもおれを待っていてくれた。戻る保障なんてないおれの後姿を、どんな思いで見送っていたのか。それを思うと泣けて泣けてしょうがなかった。
ずっとふたりで泣いていたけれど、次の電車のアナウンスが聞こえて我に返る。
「……行くぞ」
すれちがいざま、あいつがおれの肩に触れた。男女のように抱き合うこともできない、ふざけたふりをして抱きつくこともできない、おっさん同士の恋はさりげなさの中に愛情を隠すしかない。
「いいのか、でもおれは、お前を……」
おれはお前を裏切ろうとしたんだぞ。それどころか、もう少しのところで、何の罪もない素敵な女も巻き込もうとしていた。ちょっと誰かに何かを言われただけで、フラフラする、弱い人間だ。
それでも?
それでも、お前は?
「いいんだよ。さよならには理由が必要だけど、やりなおすには理由は必要ない。……そうだろう?」
眼鏡を太めの指で押し上げて、あいつが笑う。定刻通りホームにすべりこんできた電車のライトが、昔よりやわらかくなった微笑みを淡く照らし出す。
おれはきっと一生、このときのこいつの笑顔を忘れない。戻ってきてよかったと、心の底から思えた。
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