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(……本当に、……か?)
微かな声が頭の奥で、いや心の奥の奥から聞こえた。階段の真ん中で、足を止める。
「あぶねーだろがっ、おっさん!!」
まだ学生っぽい酔っぱらいが悪態をつきながら、臭い息をまき散らし去っていっても、それでもおれは動けなかった。
スチールの手すりにつかまったまま一歩も前に進めなくなった。
(───本当にそれで、いいのか?)
もう一度、声が聞こえた。今度ははっきりと聞こえた。それは、だれの声だったのだろう。自分か、あいつか、はたまたおれの守護霊ってやつか。わからない。だけど、おれの心をえぐるには充分すぎるものだった。
(十年後の、ありもしない架空の幸せのために、今の幸せを犠牲にしても本当にいいのか? そうやって死んだように生きていくのか? お前は?)
手すりを痛いくらい強く握りしめる。必死に捕まっていないと今にも体が反転しそうだった。
ダメだ。
戻るな。
お前が苦しいだけだ。
お前はもう十分に苦しんだ。もう楽になってもいいんだ。
この偏見だらけの社会でお前みたいな繊細すぎるやつが、人と違う生き方を選んでもろくなことがないぞ。きっとつぶされる。笑いとばせる強さも持てないくせに、何を選ぼうとしているんだ。
だけど。
(それでも。おれは。おれは……)
あいつの笑顔や泣き顔が頭に浮かぶ。出会ったばかりの、少年っぽい、はにかんだ表情までも。
靴跡の目立つ白い床の点字部分に、涙が数滴こぼれ落ちた。
(ああ、だめだ。おれはやっぱり、だめだ)
「.....っ」
──あとはもう夢中だった。
あいつの名前を呼んで、もはや誰もいなくなった階段を一気に駆け上がった。
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