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音が、聴こえた気がした。第一音楽室の扉の奥から。
たぶん、ピアノの音だった。たぶん、というのは今までどの楽器がどんな音色を鳴らすのか意識なんてしたことがなかったし、その音があまりにも消え入りそうな小さな音だったからだ。
近くによって耳をそばだたててみる。こんな油断したら体が震えそうな暖房のまだ行き届いていない早朝から一人で演奏するということは、オーケストラ部の部員なんだろうか。
しーんと静まり返った音しか返ってこなかった。しばらくして耳をドアに近付けてみても同じことだった。気のせいだろうか、でもーー。
なぜか妙に気になって取っ手に手を掛ける。少し重い取っ手を下に引くと、ゆっくりと分厚い扉が開いて窓からの柔らかな日差しが射した。冬の晴れた日に特有の澄んだ真っ直ぐな光が、音楽室の真ん中に置かれた一台のグランドピアノに注がれる。
人がいた。私服のこの高校には珍しいブレザーの制服姿の男子だった。そして、その顔はとても白く整っていた。なんと言えばいいのか、絵画から抜き出たと言うべきか、彫刻なようなと言うべきか、カッコいいとかかわいいではなく、ただただ美しい。そんな顔が正面を向いたまま瞼を閉じていた。
生きて……いるよね?
そんな疑念を抱いてしまうほどに、男子生徒は微動だにしなかった。その細長い指は開けたピアノの白鍵に置かれたままで、まるで次の演奏の合図を待っているかのようだった。
「……ねえ」
耳鳴りが聴こえてきそうな静けさに耐えきれなくなって、気づけば言葉を発してしまっていた。
パチっと少し茶色がかった黒目が開く。思ったよりも柔和なその瞳を私に合わせると、彼は驚きもせずに小さく微笑んだ。
「今、何か弾いてたよ、ね?」
音が聴こえたか聴こえていないか、そのことを確かめたかったわけではない。誰かもわからない人にする質問でもないこともわかっていた。それでも、口が勝手に動くみたいに自然と口をついて出てしまっていた。
「ピエ・イエス」
彼はうなずくと白鍵から手を引いて呟くようにそう言った。私の目を真っ直ぐに見つめたまま。
「ピエ……イエス?」
「そう、ピエ・イエス。 フォーレ、レクイエムの第4曲」
「レクイエム……」
全く見当もつかない私を見て、彼はもう一度鍵盤に手を戻し、静かに演奏を始めた。彼の瞳に似て柔らかで、和やかで、それでいてどこか物悲しいその曲を。
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