4 夏至祭

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 カイは長い手紙の最後の一枚に目を落としたまま、じっと動かない。  ただ、頬をはらはらと涙が流れ落ちていく。  アーライルは声をかけることなく、その姿をじっと見詰め続けた。  涙がカイの絶望を洗い流してくれるころを、アーライルは祈った。しかし、それは容易いことではないだろう。父と慕っていたイサリオンを失い、未知の力に翻弄され、故郷と信じていた居場所から放逐されたのだ。  おそらくは、その過程で多くの命も失われたのだろう。  彼はその責任まで背負い込み、自らを責めている。  このまま壊れてしまわなければいいが……。  アーライルは深い危惧を抱いていた。かといって、不用意にカイを慰めることも憚られる。  彼はこの後も自らの力で過酷な運命に立ち向かっていかなければならないのだ。  今はただ、じっとカイが顔を上げるのを待ち続けることしかできない。 「アーライル様……」  しばらくして、手紙に目を向けたままカイが呟いた。 「なんだい」  何はともあれ、カイが反応を示したのはいい兆候だ。 「……。父さんは、何が起こるのか知っていて、それでも俺のことを……」 「ああ」  アーライルは自分あての手紙の内容に思いを馳せた。  夏至祭の場で恐ろしいことが起こることを、イサリオンはたしかに知っていた。具体的な状況については分からないところもあったのか、つぶさに書いてあったわけではない。  しかし、カイがきっかけとなり、黎明戦争の邪神の先駆けが出現することは記されていた。  その上で、カイへの想いを綴る個所は、アーライルの知るどんな時も感情に流されず冷静であったイサリオンにしては、いささか詩的とも思えるほどの情熱を込めて書かれていた。  そう、たとえ何があったにせよ、イサリオンは間違いなく父としてカイを愛していたのだ。 「俺は……これからどうすれば?」  カイが顔を上げた。 「それは、お前次第だ」  カイに対して為すべきことはイサリオンの手紙に記されていた。しかし、カイ自身に覚悟と決意がなければ意味がない。 「俺は…‥‥生きたいです」  おそらくはすべてを失い、死を望んでいたのだろう。痛ましい思いがアーライルの胸を刺し貫くが、黙ってカイの言葉を促す。 「生きて、強くなりたいです」 「その言葉を待っていた」  アーライルは腰につけた雑嚢から一通の書類を取り出した。  イサリオンの放った小竜キュルクが到着するとすぐに向かった先で手に入れた書類だ。イサリオンの手紙には裏稼業の職人の居場所が書かれていたのだ。  深夜の訪問に殺意を漲らせながら出てきた男は、イサリオンの手紙にあった合言葉を口にすると、即座に態度を和らげた。  A+ランクのレンジャーともなれば裏稼業にも詳しくなるが、この男のことは超一流の腕を持ちながら、例え貴族の依頼でも気に食わなければ受けないということしか知らなかった。知る者も限られた伝説の偽造職人である。改めてイサリオンの人脈に驚いたものだ。 「人族、カイル・エイジャックス……」  書類に書いてある文字をカイが読み上げた。偽造職人が作り上げ、保管していたカイの新しい身分証明書の名前だ。 「ザグレムの里でのことはいずれ噂となって広がる。その騒ぎの中心になったカイ・レグルスの名前も知られてはならない者の耳に入るだろう。お前は今から別人になるんだ」 『カイル』か……。呼びかけられても自分のことだと気づきやすい似た名前、それでいてありふれた名前を選んだのはイサリオンの心遣いだろう。 「これをいつも着けているようにしろ」  シュトゥラの腰に振り分けた荷物入れからアーライルは簡易な兜を取り出してカイに渡した。額から前頭部に掛けてを鉄板で覆った王冠型の兜で、そう珍しいものではない。いざというときにカイの額の紋章を隠してくれるし、軽量なので普段から装備していてもおかしくはない。 「ありがとうございます」 「見たところミュートの紋章は消えかけているようだが、またいつ現れるか分からない。それが人に見られていいものではないのは分るな」  そのことを身に染みているかのように、カイは眉間に皺を寄せて頷く。 「最後に、イサリオン殿からの伝言だ。『どんなときも冷静さを失うな。そして、何より大切なことは恐怖に身を任せぬことだ』」  カイがはっとしたような表情を浮かべた。何か思い当たることがあるのだろう。この言葉はイサリオンがアーライルに宛てた手紙に、アーライルの口から伝えて欲しいと書いてあった。  アーライルは言葉を続ける。 「『混乱と恐怖はお前の持つ力を呼び覚ますのだ』」  しばし、その場を沈黙が支配した。 「分かりました」  カイは小声でアーライルの言葉に応じたが、そのさまはまるで何かを噛み締めるかのようだった。 「では、行くぞ」  アーライルはひらりとシュトゥラに跨り、カイに向けて手を差し出す。 「どこへ行くのですか?」  どこへ行くべきかもイサリオンが手紙でアーライルに指示していた。 「人種の坩堝、混沌と退廃の街、ダンジョン都市のマーレボルジェだ」  そこがどういう場所かアーライルは知っていた。彼らのパーティーが探索を続ける巨大ダンジョンを中心とした街。  一攫千金を夢見た冒険者、ダンジョンから産出する物で一儲けを企む商人、そうして集まった人間を相手にする娼婦、博徒が群れ集う無法地帯だ。当然行政の手が及びきらないのをいいことに、犯罪者や無法者、重税に土地を捨て逃れた難民といった逃亡者たちの巣窟でもある。 「あの街での生き延び方を一から教えてやる」  シュトゥラの後ろにカイを跨らせると、アーライルは言った。  カイを待っているのは決して楽な道ではないだろう。  正直なところ、アーライルはマーレボルジェよりもましな隠れ家はいくらでもあるだろうと思っている。しかし、それがイサリオンの願いであれば違えるわけにはいかない。  カイは口にしたのだ。「強くなりたい」と。  少なくとも、あの街は強くなるのには向いている。    生き延びることができればの話だが。  アーライルはシュトゥラを駆る。さし上る朝日に向かって。  その先でカイを待ち受けているのは希望だけではない。  でも、今ひと時、カイを自分の庇護のもとに置いてやろう。アーライルは背中に暖かい体温を感じながら、そう決意した。  Ancient Evoker Saga Ⅰ 『諜者の里の試練』 完
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