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滅多に着ない喪服からは、防虫剤の匂いがした。
遺影の母は、いつもの人受けの良い笑顔を携えそこにいた。
母の死を悼んでくれる人々。それらを尻目に思ったこと。
…ああ、これでやっと、捨てられる。
はたから見れば、恵まれた子どもだったろう。教師の父と、専業主婦の母。持ち家。習い事三昧。
けれど私にはずっと、自身が子どもを生んだ今になっても、澱のように心に燻るものがある。
あんたがやりたいと言ったんでしょうと、辞めさせて貰えなかった、ピアノのお稽古。やりたいなんて言った記憶はなかったのに、物心ついたころには既に、私の生活は五線譜と共にあった。
先生は美人だったが、指使いが違うと手の甲を叩かれ、ペダルを上げるのが遅ければ音が濁るとふくらはぎを蹴られた。レッスンの時間が苦痛で仕方なくて、私は良く楽譜を忘れ、部活で遅くなり、理由をつけてはことごとくサボろうとしたものだ。
辞めたい辞めたいと言い続け、あんたがやりたいと言ったんでしょうと言われ続け。
不毛な時間は私が大学受験を控えた高三の夏まで続いた。
おかげさまでピアノの音を聞くのも嫌だよお母さん。
ピアノという字を見るのも嫌だよお母さん。
良く夢を見るんだよ。
そこは発表会のステージの上で、ライトに照らされて熱をもった私は上手く笑えず、観客席も見られずに、逃げ出したい気持ちでピアノに向かう。
椅子に座れば目の前には真っ白な譜面。何を弾けば良いのかも分からず、立ち上がって走り出すことも出来ずに、私はライトを浴びて座り続ける。
真っ赤なバラと黄色いパンジー子犬の横には。
そして私はレースを編むのよ。
お母さん。お母さんは、あれに似てる。
そんなに好きなら自分が習えば良かったのに。
ねぇ、今ごろは、大好きなピアノと一緒に居るね。
とっくに遺骨と共に灰になり、骨壺に納められたのは、昨日ハンマーで砕いたピアノの鍵盤。
五線譜も沢山入れてあげた。
ショパン。ベートーベン。モーツァルト。
さよならお母さん。
さよなら、もう二度と、鳴らないピアノ。
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